「一閑堂」というブログで、今月の歌舞伎座夜の部「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」は見ものであるとのエントリ(新藤十郎の政岡)を読み、そういえば「先代萩」は歌舞伎では有名な演目だったなあ、新藤十郎の「口上」も観てみたいものぢゃなあ、と思い立ったらいてもたってもいられなくなって、慌ててチケット松竹で今週日曜日の席を予約しました。
ただ観るのも何だと思い、ネット検索で情報を収集しておきます。まずは定本ではいつもお世話になる鶴澤八介メモリアル「文楽」ホームページに「竹の間の段」「御殿の段」「正岡忠義の段」「床下の段」のテキストがありますので、「御殿の段」からざっと目を通しました。読むだけで泣けてきます。武士の子が哀れ、母も哀れ、きっと客席は涙にくれていることでしょう。下は主君の毒見役を言いつけられている、千松の台詞です。
コレ母様、侍の子といふものは、ひもじい目をするが忠義ぢや、また食べる時には毒でも何とも思はず、お主のためには喰ふものぢやと言はしやつた故に、わしや何とも云はずに待つている。その代り、忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや。それまでは明日までもいつまでも、かうきつと座つて、お膝に手をついて待つてをります。お腹がすいても、ひもじうない、何ともない
有名な「飯炊き」の場面を二人の子役を相手に正岡はどう演じているのか、子を嬲り殺しされた後の演技やいかに、子役もどうか、定本を読みながらも興味は舞台の上をさまよいます。
次にググると、歌舞伎素人講釈というサイトで「引き裂かれた状況」と題する文章を発見。早速読んでみますと、正岡という女性の心理状況を「予祝性」という言葉を用いて、見事に説明しています。(興味のある方はリンク先を参照ください)
武家に生まれた故の運命と武士として生きることの意味、そしてそこにある人間的な不条理。その捩れた運命においての逆説的な哀しい「至福」の瞬間とは。歌舞伎においては、「武士の母」の子の武運を祈り武士として忠義を果たすことをわが身や家の誇りとする一方で、親としての愛情を隠し切れないという二重性がよく描かれます。極めて封建的ですが、今尚涙をさそうテーマですね(;_;ゞ
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