ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1913年版)
ピエール・ブーレーズ(cond) クリーブランドpo.
録音:1969 SONY SRCR(国内版)
ブーレーズもこの曲を四度ほど録音している。この盤69年版は、ブーレーズがクリーブランドと組んで録音したもので、「春の祭典」の歴史的名盤とさえ言われている演奏だ。現代においても、これ以上の演奏は91年、やはりブーレーズとクリーブランドの二度目の演奏しかないという者もいるらしい。それほどの演奏なのである。
演奏の感想というものは、比較する盤や始めて聴いた盤での刷込みや、他者の批評や感想から完全に自由な状態で書くことはほとんど不可能と言ってよい。特に、ある演奏での刷込みがある場合、それが先入観となってしまい、その盤の印象をぬぐい去るためには、現在聴こうとしている盤を、新たな刷込みとするほどに聴き込まなくては感想を書くことなど望めないのではないかと暗澹たる気分に襲われる瞬間さえある。これから書こうとする「歴史的名盤」に対して、どれほど「束縛」から開放されているのかは、自分自身知る由もないのだ。
さて、言い訳が長くなった。ご多分に漏れず敢えて書かせてもらうなら、この盤から聴き取ることが出来るのは、豊饒なる色彩の乱舞と作品の持つ複雑さと美しさ、そして強靭さである。
バーンスタイン盤(58年)で感じるような、感情が高ぶり畏怖さえ感じるような部分や、ほとんどデモーニッシュな雰囲気は少ないと言えようか。しかし、それだからと言って、作品の輪郭がぼやけたり曖昧であるということは微塵もないのだ。むしろ、この盤との比較で考えるならば、バーンスタインの演奏は、若さ故の突っ走りと情動の部分に偏り過ぎているようにさえ思える。
例えば、第一部の「春のきざしと若い娘達の踊り」の部分など、単純なリズムの連続の中においても単調さはかけらもなく、常に変化し続ける動きが見えるし、曲が進むに連れて次第に色彩豊になってゆく様は見事な描出力を感じる。「誘拐の遊戯」にしても抑制を効かせた表現が、いたずらにして無意味とさえ思えるカタストロフを演じることを避けているようにさえ思えてくる。そして、これは録音のせいなのか、オケの特徴なのか、指揮者の力量なのか、実に色々な音が見えかくれし、どの瞬間を切っても新たな驚きと、新鮮さに満ちているのだ。
バーンスタインの演奏が、切ると血が出るような生々しさと凶暴さに満ちているとするならば、ブーレーズの演奏は、切口が鋭利で鋭く、歯切れよく、瑞々しい植物の細胞の一つ一つが潰れることなく、試験薬に染まりその姿をあらわにしているかのような感触さえ覚える。
また不調和の調和の美というものが、たぐいまれな精緻さの中でこれでもかとばかりに描出されている。ここらあたりも、バーンスタインが一気に押しまくっているのに対し、実に丁寧に色々な色彩のパレットを使い分け、互いの色が混ざらぬようにに描き分けていると感じるのである。第二部にしても暗黒的なミステリアスさの表現は、息を飲むほどの美しさであり、イメージ豊であるがために情景描写的であるとさえ思える。
このように、精緻かつ鋭利にこの曲にアプローチすることで、「分析的」とか「明晰な」いう表現を与えられるのかも知れないが、それでいてこの作品の持つ強靭さやエネルギーが失われていないことが名盤たる所以なのであろうか。(それにしても、音楽音痴な私には、どこが「分析的」でどごか「明晰」なのかは判然としないのだけどね・・・・)
ただひとつだけ、バーンスタイン盤と比べて欠けているのは、この曲を聴いて感じる圧倒的な内からこみ上げる肉体的とも言える情動感であろうか。根源的な、あるいは本能的な有無を言わさぬパッションと言ってもよいかもしれない。そういうものをこの演奏から感じることは、ない。もっとも、それがこの曲に「不可欠」なものであるのかは、私には分らないのだが。
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