最初は「リエンチ」序曲と「トリスタンとイゾルデ」前奏曲を続けて聴かせ、単純さと複雑さ、俗っぽさと聖なるものの対比を説明していた。次にはトリスタン和音をピアノで響かせ、これを「20世紀音楽幕開けの和音」であると紹介しながら、それと対極にあるような「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲での単純極まりない和音を用いた体位法を紹介、古典的な音楽をひきずっている面も持ち合わせていると説明する。曲の長さにおいても、「指輪」のような4夜にも及ぶ曲もある一方で「ジークフリート牧歌」のように20分程度の曲があることも示し、その音楽の極端なことを説いていた。
ワーグナー音楽に少しは親しんできた身においては、なるほど最もだと思う反面、そのような二律的な要素だけでは、ワーグナーという巨人にして怪物を表現することなど、全く適わないのだと思うのであった。ワーグナーは、このような人物が存在したことそのものが(モーツアルトと同様に)奇跡であるとさえ思われるのだ。
最近入手した、三富明による「ワーグナーの世紀」(中央大学出版部)*1の序章に『ある時代の精神がひとりの人物の中に集約的に現れることがある。(中略)十九世紀のヨーロッパの時代精神をよく代表する芸術家もしくは思想家は誰だろう(中略)、ドイツ語圏に限るならば、私はワーグナーの名をまっ先にあげる』と書かれている。とにかく近現代ヨーロッパ思想史を専門とする大学の先生をしてそう思わせるだけの広がりと大きさがあるのだろう。
ワーグナーの音楽というものは本能の深いところで反応する。「マイスタージンガー」や「ジークフリートの葬送行進曲」などの有名な曲は、私の場合、中学の吹奏楽時代に知った曲だ。「マイスタージンガー」はひょっとしたら、練習くらいしたかもしれない。久しぶりにこれらの曲がTVから流れてくるのを聴いて、私はフラッシュバックを起こすと共に、音楽のもつ本能的な快楽にも似た感情を覚え慄然とし言葉を失ってしまう。「マイスタージンガー」の単純な盛り上がりも捨てがたいが、「ジークフリートの葬送行進曲」の不安定な音階と、弾けるようなシンバルからの響きなど、まさに血が騒ぐという感興を覚える。
それに反して、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲だけというのは、いかにも間が抜けている。緊張感や音楽としての連続性が断ち切られているようで、感興を覚えるよりも「つまらねー音楽」と思う気持ちが先に立ってしまう。ブルックナーではないが、まさにどこで終わっても聴いているものには分からない金太郎飴的な音楽であるなあと思うのだった。
(*1)「ワーグナーの世紀」オペラをとおして知る19世紀の時代思潮 ワーグナーの周辺の時代思想やら背景を知ることができるかもしれないと、インターネットで見つけて注文した本なのだが、たとえば《トリスタン》の解説は題名とは裏腹に、主観的にして下世話なワーグナー解説本という趣だ。三富氏が中央大学でワーグナーについての講義をしている(していた?)らしく、その講義を母体としてこの本が成立している。学生達のワーグナーに関する感想も載せられており、興味深いのだが、少し固めの内容を期待していた私には肩透かしな内容であったことは否めない。
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