日時:2002年1月6日
場所:
指揮:尾高 忠明
演奏:札幌交響楽団
モーツアルト: 歌劇「フィガロの結婚」序曲、フルート協奏曲第1番ト長調 K.313
(フルート:森 圭吾)
J.シュトラウスⅡ: 喜歌劇「こうもり」より序曲、「公爵様、ああたのようなお方は」
J.シュトラウスⅡ: 山賊ギャロップ、ワルツ「春の声」
ヨゼフ・シュトラウス: ポルカ・シュネル「憂いもなく」
F.レハール: 喜歌劇「メリー・ウィドウ」よりメリー・ウィドウ・ワルツ、ヴィリアの歌
J.シュトラウスⅡ: ポルカ「雷鳴と稲妻」、ワルツ「美しき青きドナウ」
(ソプラノ:名古屋 木実)
札響のニューイヤーコンサートを聴いてきた。生でニューイヤーを聴くのは初めてであり期待をもって出かけた。チケットも早々に売り切れただけのことはあり、客席もほぼ満席状態。ステージの上には花が添えられており普段とは違った雰囲気で華やかである。
開始早々はモーツアルトの「フィガロの結婚 序曲」。速めのテンポで軽快に進みまずまずの出だし。個人的には金管群にもう少し祝典的な華やかな音色を期待したいところであったが、冒頭なのでこんなものだろうか。
続いては、主席フルート奏者 森圭吾氏によるモーツアルトの「フルート協奏曲」。これは私としてはかなり期待していた。しかし、最初に森氏の音が出てきたときには少々意外な思いにとらわれた。席は3階席であったのだが、音が届いてこない印象を受けた。1楽章を過ぎると、オケとソロのバランスにも慣れ音楽を楽しむことができたのだが。それでも普段のオケの時に私が森氏の音だと認識していたものと雰囲気が違うように感じた。
私は定期会員でもないし、それほど多くの札響の演奏に接しているわけでもない。また、森氏のソロやCDを聴きこんでいる訳でもないが、先入観念として私が抱いていた森氏のイメージというものはあった。だから森氏がモーツアルトをどのように演奏するのかに少なからぬ興味を抱いていた。その期待は、良いほうにも悪いほうにも裏切ってくれたと言えようか。音量の点で多少の不満はあったものの、彼の音はモーツアルトの音楽に非常にマッチし、繊細にして美しくきらびやかなものであった。
その上で、彼独特のモーツアルトをも聴かせてくれたように思う。圧巻は1楽章のカデンツァであった。非常に長い演奏で思わず惹きこまれ聴き入った。今までどこでも聴いたことがないようなユニークなものであったように思えた。具体的に指摘できないのがもどかしいのだが・・・。ただ、あれ程のカデンツァを披露するのならば、もう少し押しの強い演奏をしてもよかったのではと考えるのは勝手な希望だろうか。
先に音量の点で不満が残ると書いた。私の聴いた席が悪かったのか、それとも耳が悪いのかは分からない。フルートの音というのは繊細なように思われがちだが、2000人ほどの大ホールでオケがバックであっても朗々と鳴り響くものだと思っている。森氏のテクニックからすると、それを満足させることは、さして難しいこととは思えない。今回の演奏が尾高=森のモーツアルト解釈であるのかは、私にははかり知ることができない。ただ、プロの演奏表現の多彩さをかいま見た思いがする。
休憩をはさんで、ワルツや名古屋木実さんのソプラノは、前半とは打って変わってリラックスした雰囲気で演奏会は展開された。(最初から尾高さんはリラックスしていた、緊張していたのは私だけかもしれない)
驚くべきは名古屋さんのソプラノである。圧倒的な声量と広がり、美しさ。人の声に生で接するたびに私は驚いてしまうが、今回は本当に驚いた。これがオペラ歌手の実力というものなのだろうか。たとえば「公爵様、ああたのようなお方は」の場面での歌いなど、私はオペラは全く見たことがないが、彼女の周りの舞台に急にセットができあがり、オペラの一場面を彷彿とさせるような雰囲気さえある。
一流の演奏家というのは、たった一音発するだけで会場の雰囲気を一変させる力を持っている。私はそれを目の当たりにすると、魔法を見るがごとくの思いがする。その上彼女が歌うと華が舞う、いやはや素晴らしいの一語に尽きた。
指揮者の尾高氏もサービス精神が旺盛である。意表を突いて指揮を始めたり、演奏者にアトラクションの役割を演じさせたり、トークで突っ込みを入れたりと、始終ニューイヤーを意識した演奏会つくりであった。ラストはお決まりの「ラデツキー行進曲」、拍手喝さいで演奏会を終える事ができ幸せであった。ニューイヤーコンサートというものはいいものである。
余談ではあるが、途中まで聴いていてはたと考え込んでしまったことがある。それは、尾高氏の意図と会場の温度差が微妙にずれていること(つまり聴衆が彼の企みに乗り切れない、乗ることに慣れていない)を感じてからなのだが、私は何と気難しく音楽を聴いているのだろうかと思ってしまったのだ。
今日の演奏はいつもより良い、悪いだの、あそこで何故こんなテンポになって、打楽器はあんな叩き方になるのかなどなど・・・何かをモチーフとしてその重箱の隅のような差異を確認して悦に入っているだけなのではないのか。音楽というのは、本来楽しみや慰めのためにあるものだ。難しい解釈や勉強のために聴いているのではない。音楽理論や歴史のイロハも知らない人間が、今日の演奏が良いとか解釈が気に食わないとか小賢しい事を述べる。ちょっと違うのではないかと思うのだ。
そう考えると、なんだか急に音楽レビュを書くという行為がばかげた酔狂のようなことに思える、というと考え過ぎだろうか。
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