2002年1月4日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第7番

指揮:レナード・バーンスタイン 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:Oct 1988 DG (国内版)
バーンスタイン最晩年のウィーンフィルとのシベリウスの7番である。まず、この時期のバーンスタインの特徴であるテンポの遅さ。速い演奏だとこの曲は20分を切る演奏もある。しかし、そこを彼は25分もかけて演奏している。2番交響曲のレビュでも書いたのだが、もはやこれがシベリウスかという疑問も湧こう。
冒頭のAdagioからして、涙々たる抒情性を帯びており、ウィーンフィルの艶やかにして厚みのある弦の響きがそれを一層に引き立てている。響きは壮大でドラマチックだ。
この演奏を聴いていると、バーンスタインが呼吸し、うたい、生命を音楽へと同化してしまっているようなリズムを感じてしまう。うねるような音楽の旋律は何かとの交信のようでさえある。ベルグルンドの演奏で感じるような寂寞感や(この演奏でも寂寞感はあるが)、人間の体温を排したような音楽とは対極にあると言えるかもしれない。
だからといって、シベリウスの本質を見失った、バーンスタイン独自の解釈の演奏だと言えるのだろうか。
例えば二度目のトロンボーンの核主題が現れる部位では、ことさらにテンポが遅くなるが、ここを聴いたときには背筋に旋律が走るような感覚さえ覚えた。ここの存在感の神々しさと存在感、過度な表現ではあると同意するものの、立ち現れた音楽はシベリウスの他の交響曲でも何度も感じた存在そのものだ。その後に現れるアレグロ・モデラートの弦と木管の旋律の優しくも慈しみに満ちていることといったらどうだろう。
Vivace部分も、音符のひとつひとつがはっきりと、そして遅い。他の駆け抜けるように演奏しさったものとはまるで異なる。噛みしめるかごとく音を演奏させることにより、音の一つ一つが澱のように心に溜まってゆく。静かで軽い塵でも積み重なることで、ずっしりと重みを何時の間にか増してゆく、そんな風な表現に感じる。
やっぱり、私はバーンスタインのような演奏が好きなのだと思う。シベリウス云々を超えてしまい、三度目のトロンボーンの核主題が現れたところで、私は落涙してしまった。もうどうでもいいや、という感じになってしまう。それにしても、何だこの遅さは!そして劇的さは! こいつはマーラーというよりシェラザードではないかあ!と思うものの、許してしまう。
ラストに至る部分も、抑制なんかまるでしていない。バーンスタインが目をつぶり音楽に身を捧げている姿が目に浮かぶ。
これがシベリウスか、改めて問う。私がシベリウスの音楽に感じてきた(他の人はどうだか知らぬが)煌きにも似た光は、ここには全くない。そんな繊細なものは重厚なる音楽に塗り込められてしまっており、どこにも見出せない。しかし、それでも紛れもなくシベリウスだ。彼が表現している存在を、これほどまでに生々しく演奏しきっているものが他にあるだろうか。
ラストを聴き終えて感じたが、この演奏は重い、ずっしりとくる。ケーゲルの4番も暗く重い演奏だった。しかしこのバーンスタインの7番ときたら再び聴く気力が当分は沸かない。同時進行でテキストを作ったため、普段なら聴き直し、おかしな部分を修正するのだが、勘弁していただく。こういう演奏は、何度も聴いてはいけないのだ。

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