指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1/1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
全体が単一楽章で構成された有機的な形式、とは、この曲の解説の中で必ず出てくる言葉だ。演奏時間も、せいぜい20分を少し越える位の演奏であるので、一聴すると簡素にして高度に凝縮された音楽という印象を受ける。そして何度もこの音楽に耳を傾けると、ここに表現されているものは、交響曲という形式がフィンランドという極北の地で究極の形に結実した作品であると思えてくる。この交響曲に比類するものは存在せず、またこれ以上簡素にして雄大なる純音楽的世界を表現した作品もないとさえ思えてくるのだ。
同時代にドイツにおいてマーラーがたどり着いた方向とは、全く違ったベクトルを有している作品であり、これを交響曲の極北と位置付けるならば、この先に表現される音楽として何が考えられるのだろうか、という評が生ずることも止む無しと思える。
この曲の評としては、解説本などには「精神的」「原始的霊感」「渋さ」「幽久」「単純」「簡素」「無限性」などのキーワードが出てくる。このようなものを読むと、一体これ以上何を私が付け加えられることが出来ると言うのだろう。
ここで聴いているデイビス盤が、本演奏の白眉のものとはいえないであろ。それでも、この音楽が表出している世界が(それは複雑でありそして、湧きあがってくるのは言葉に換言しにくい極めて音楽的な感興であが)ひしひしと伝わってくるではないか。
冒頭からの悠久の時間を思わせるような音楽の進行は、今までの聴いてきたシベリウスの音楽の性格を持ちながらも、5番以降に聴かれたような内部から湧き上がってくる感興を抑えることが出来ない。それとともに、聴いていて不安の象徴なのかあるいは至福の表現なのか、判然としないすわり心地の悪さ、ある意味の不安定さを内包している点も曲を特徴付けていると思える。
発散しカタルシスを開放しようとしつつも円環のごとく主題が巡ってくるのを聴いていると、大いなる満足感と至福に包まれていることに気付かされる。この境地は、今まで何度もシベリウスの他の交響曲で感じたものと変わるものではない。しかし、ここでは更なる洗練が見られるということだ。
今更ここで、C・デイビス&ボストン響の演奏の特徴を挙げるつもりはない。聴きとおした印象としては、今までの演奏のスタンスと変わるところはないと思われる。非常に素直に、そしてストレートに音楽の構成と美しさを表現している。
一方で、この繊細なる音楽を表出するには、少し雑な印象を受けないわけではない。この音楽は触れれば壊れてしまうような、微妙さと脆さもかね合わせているように思える。何かが表現上足りない(あるいはやりすぎている)と思わせる部分がなきにしもあらずだと思うのである。
例えば、打楽器の扱いにしても、彼は始終ティンパニの音を全面に打ち出し、劇的な効果を曲に付与しているが私には少しうるさく感じる。また、金管群のフォルテッシモにおける響きも混沌として雑な印象だし、それに対比する弦の響きは透明で美しいというものではない。ここらあたりがボストン響の限界なのだろうか、と思わずにはいられないがいかがなものだろうか。
もっとも、だからといってこの演奏が、聴く価値のないものであるとは思わない。デイビスのある時期の彼のシベリウスの演奏解釈としても、またそういうことを抜きにしても、十分に感動を与えてくれる演奏であるとは思う。それは、デイビスのストレートさが聴くものに伝わるからだろうかと思うのであった。
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