指揮:ロリン・マゼール 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:3/1966 EMI DECCA POCL-6043 Legends (国内版)
マゼールのシベリウスである。録音は1966年であるので、考えてみれば今のようにシベリウスの名演が氾濫してはいない時期の演奏ということなのだろう。4番のレビュでも解説を引用したが、当時は絶大なる評価を受けた演奏だ。ベルグルンドの三度目の録音や、ヴァンスカ&ラハティなど高度な演奏を聴くことのできる現在において、マゼールの演奏は過去のもので、もはや価値のないものであろうか。
私はこの演奏を聴くと、どうしてもっと評価が高くないのだろうかと不思議でならない。それは同時期のチャイコフスキーの交響曲の演奏にも言えることである。ビルトオーゾ的な彫りや深みなどは少ないかもしれないが、ここに聴かれるのは、圧倒的な運動性能である、言い換えれば音楽の持つ推進力というものかも知れない。
シベリウスの7番に「推進力」など求めない、と人は言うだろう。しかし私がここで述べた推進力とは、ただ速い演奏とか性急な演奏という意味ではなく、曲の到達点に向けての説得力と音楽の構成を崩さずに表現を形作るというような意味だ。
こう書いてみて、そんなものは一流のオーケストラが演奏しているのだ、基本の「き」であって、あって当たり前ではないか、と言うものもいるかも知れない。それはそうなのだ、しかし、何かが他の演奏とは、本当に微妙に違うのだ、あるいは気のせいかもしれないし思い込みであるかもしれない。音楽レヴュなど書くという作業は、一瞬の思い込み(思い違い)を文章にしているだけなのだろうし。
��番交響曲では、トロンボーンによる核主題が重要なテーマを与えていることは、お聴きになれば分かるだろう。ここでは、4分30秒、9分50秒、そして16分50秒頃に現れる。この三つの核主題を改めて聴いてみたが、どれもが曲のクライマックスで登場してはいるものの、それぞれを明確に性格を異なえて登場させている。最初のそれは静かなクライマックスの中で、まさに大自然の呼吸というような印象を受ける。二回目のものは荘厳な雰囲気のなか、後ろで支える弦が音は小さいものの、音楽に深みを与えているのに成功している。三回目はテンポを落とし弦の高音でのトレモロを伴うことで、全く違った煌きが与えられてその存在を感じることができる。三回目でテンポを落とすのは他の演奏も同じだが、たとえばベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏と改めて比較するとかなり性格が違うことが分かる。
全体に演奏の性格としては、抒情的にしてロマンチックに少し傾いた演奏であるかもしれないが、過度なものではない。こういう演奏を聴くと、現代のマゼールは良く分からないが、若かりし頃のマゼールは、己の溢れる才能と、ともするとどこまでも加速してしまいそうなその勢いと情動に、計算しつくしたブレーキをかけつつ演奏しているような気がするのだ。従って非常にクレバーな印象を受ける。ただ、ベルグルンドの緻密さと濃密さとは異質だが・・・(これとて、マゼールを知って書いているわけではないので見当違いかもしれないが)
18分以降のコーダに向かうラストは、この演奏の中では最高の出来になっていると思う。決然とした響きを聴かせた後の、ヴァイオリンが奏でるテーマの中での休止の使い方のうまさ、緊張感を生んだ後にトロンボーンのテーマがふとよぎりフルートの優しい音色が聞こえてくる。緊張から弛緩へ移行し限りなき安寧を受ける。ラストの不思議な和音の終わり方も美しい。
名演という評価のない演奏のレヴュを、またもや長々と書いてしまった。「7番の名演として薦めるか?」と問われれば「否」と答えるだろう、わざわざ本演奏を聴かずとも7番の真髄に触れることはできる演奏は多いだろう。ただ、なんと書いて良いのか分からないが、この時期のマゼールの才能を改めて確認した次第である。
また、この盤を聴いた上でベルグルンドの演奏を聴くと、彼の演奏の特異さと気高さがさらに認識される気もするのであった。
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