いまなぜ青山二郎かと問う前に、いまなぜ白州正子かと問わなくてはならないかもしれない。私が白州正子という名前を始めて知ったのは、田口ランディの書いたエッセイか何かだ。ネットの女王と呼ばれ、数々の文章をしたためる注目すべき現代の作家が白州正子にあこがれている。
それ以来、なにか気にかかる人物として「白州正子」の名前がインプットされた。ためしに書店でコーナーに行くと骨董や日本の美をつづった文章の数々、平安時代の歌人西行の世界。これは歯が立たないなと思った。でもいつかは読みたいという思いを残し。
いつもではないが、ふと自分を振り返るとき考えることがある、自分のよりどころはどこにあるのかと。日本人でありながら日本の文化や歴史に無頓着でありすぎるのではないかと。無国籍な料理を食し、西欧の音楽に耳を傾け、ハリウッド仕込みのエンタテイメントを楽しんだとしても、所詮は借り物、あてがいぶちでしかないのか。かといって、今更日本の文化や美術を振りかえっても、それらだって借り物に違いない。
今のありようそのものが、日本文化であるという考えもあるだろう。いまさら土門拳したいわけではないし、日常的に古典や歌舞伎に親しんだりできるわけでもないのだし。
『骨董の師匠であった青山について書きながら、著者は思う。「現代のような複雑な時代に、どう身を処していっていいか迷っている比較的若い世代が彼に興味を持っているように見受けられる」と。これは、いまなぜ白洲正子なのかという問いへの答えでもある。 』とは、インターネットで見付けた解説。
自分自身を「どう身を処していいか迷っている若者」とは思っていないが、あながちはずれた見方ではないと思う部分もある。そろそろ白洲を読もうかと思い始めたのはHPを作りはいじめて半ばのころだ。
そこで本書である。白洲正子の著書を探し近所の書店に行ったら、たまたまこれしかなく選んだものだ。白洲正子を読む最初の一冊目として適切であるのかはわからない。青山二郎という名前も初めて知ったのだが、内容は興味深く面白いものであった。
文庫本にしてたかだか180頁あまりだが、何と刺激に満ち多くのことが語られているのだろうと、ぱらぱらと頁をめくりながら感嘆してしまう。白州の文章は、語り口は平易だが、決して分かりやすいものではない。説明もある線から先は放棄しているような姿勢もある。それにほんとうのことは文章にはできないという、諦めのようなものも見える。そうでありながらも、彼女が見てきたこととその本質が文章の底からから漂ってくるという感じだ。
青山二郎という人物は、つくづく不思議な人物だ。骨董の目利きであり、装丁家でもある。文章や絵もしたためたらしいが、読後であっても青山二郎という天性の自由人の実像は、あたかも霞をつかむがごとく茫洋としている。本書の紹介(上記)にもあるように、小林秀雄の精神的なよりどころとなったほどの人物で、鋭い批評眼を持つ。最終的には小林との友情に亀裂が入りもとに戻ることはなかったのだが、その一部始終を白州は見届けた。その経緯も白洲の目で書かれている。そうなのだが、いくら読んでも私には、白州正子と青山二郎、そして小林秀雄の関係が分からなかった。人に説明するのが不可能なほど深い精神的な結びつきがあったことは伺え、読み進めるにつれ羨望の念が沸くのを禁じえなかった。
青山と小林秀雄の友情の経緯や白洲の嘆きも興味深いが、昭和文士たちのと、その裏にいた女性などがの話も面白い。内容を逐一書いてしまうと本書をただ写すだけの行為に堕しまうのでこれ以上は書かないが。
本書を読んでも、骨董の良さや骨董とは何かなどは全くわからない。ただ骨董に落ちてしまうと、とことんまでいかないと済まぬものらしい。それほどの魔力がどこにあるのか、文庫本口絵にいくつかの写真が掲載されているものの、門外漢には理解できるものでもない。
生き様として見たとき「俺は日本の文化を生きている」ということの意味まではわからなくとも、奔放にして妥協なき人生という点では見事と言うしかない。そして白州正子。日本の美を理解し解説する楚々とした日本女性をイメージしていたが、これだけは全く覆された。青山に酒の飲み方から鍛えられたという。華族出身ではあるが子供時代から男勝り、「韋駄天」の呼称がつくのもむべなるかなである。文章は読み終わった後も一文々々が頭の中に刻まれてゆくような印象を受ける。次には何を読むべきか、と楽しみが広がった思いだ。
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