私は政治学や日本の政治思想史に興味があるわけではありません。従って丸山の膨大な全集や代表作である『日本政治思想史研究』などを読むことはないと思います。本書を手にとったのは、中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」という本を読み、丸山という知の巨像が生み出した音楽観について興味を持ったからです(*1)。
ひと時絶版になっていたようですが、銀座の教文館でたまたま発見、お正月休みにやっとゆるりと読むことができました。
実のところ「音楽」に関する話題は少ないのですが、ベートーベンやショパン、フルトヴェングラーやカラヤンなどに対する見方はなかなか面白いものがありました。
例えば、ベートーヴェンの情熱とショパンのそれとのちがい。
両者とも既成形式をこえる。しかし、ベートーヴェンの場合は、生の充溢が形式をこえるところに必然に新たな形式が生まれている。構成の美そのものは崩れない。(中略)ショパンはいわば最初からくずれている。(P.111 1954年の手帖から)
例えば、ショパンとシューマンのちがい。
ショパンとシューマンの音楽の美しさは、ともにそのたゆたうような不安定性のなかにある。(中略)しかし、ショパンの場合には、そうした「不安定性」がそれ自体彼の音楽の中に構造としてある。ビルト・インされている。だからショパンは不安定性の美の古典たりうる。シューマンはちがう。彼のは安定と不安定の間を動揺しているような、そうした種類の不安定だ。(P.164)
カラヤンは思想のない、しかし、才能のある指揮者
と一刀両断。
今度(1966年)で、三たびきくカラヤンとベルリン・フィルのなんという絢爛としたむなしさ!。(中略)フルトヴェングラーの即興性と、カラヤンの計算された恣意性(P.239)
しかし、そういう丸山もカラヤンが振った「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死を聴き、
あの熱っぽくムンムンするような緊張の連続-それを思い出すだけでも私の全身の毛穴に妖しい旋律が走る。(P.254)
と書きます。丸山の音楽観に同意するかしないかは別としても、バッハのマタイ受難曲を引き合いに出し、知識人の間に支配的な日本の「庶民主義」
に対して
もうそろそろ引き下げデモクラシーから決別したらどうか(P.125)
という主張には、丸山の根幹を支えている精神が読み取れます。彼があの東大紛争の時に何を考え、評論家やタレント教授、そしてジャーナリズムに対してどういう思いを持っていたのか。「東大」を始めとする「権威」をどう捉えていたのか、実はこちらの方が本書の主幹であります。そして当然のごとく、こちらの方が断然に面白い。
「自己内対話」とは、
自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然自我と対話すること(P.252)
と書きます。丸山の知の断片たるノートではあるものの、その一文一文は地中に根を張っているような深みに満ちています。
戦後の「理念」に賭けながら、戦後日本の「現実」にほとんど一貫して違和感を覚えて来た私の立場の奇妙さ!(P.246)
丸山は階級関係と政治のような捉え方をしたせいか、左翼的という印象を持たれるらしい。しかし、上の一文を読む限りにおいて、左翼的という事の無意味さを思い知ります。
- 興味をもったきっかけは、瑞紀さんという方から以下のコメントを頂いたせいでもある。残念ながらこのエントリの後、ブログがいったん崩壊したため、コメントはローカルPCのHDにテキストデータとして残しているのみである。
『音楽の対話』が届いたら、いかに件の鈴木氏の本が
「引き下げデモクラシー」に合致するか、お解りいただけると思います~。。
その後、面白く読めるところもありましたが、ハラ立つことも多し(苦笑)。
DATE: 09/06/2005 01:56:04 AM
鈴木氏とは、音楽評論家の鈴木淳史氏のことである。彼が「引き下げデモクラシー」に該当するかは判断を保留したい。
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