2004年6月7日月曜日

子供の範たる大人が


佐世保の事件に関して、少ない表面的な事象が明らかになってきました。特に衝撃的だったのは児童のHPでしょうか。


しかしながら、加害者の児童のHPでの雑言に怖れをなす大人やマスコミは、これまたいったいぜんたい、世の中のネット社会に潜む善良で普通の人たちの匿名の悪意を、知ってか知らないフリをしてか、本当のところ何をどう考えているのか、疑問が湧いてくることを否定できません。ケイタイもゲームもネットも、暴力も偽善さえもも、全ては大人が無制御に再生産しつづけているもので、子供はそれをよく吸収してくれているわけです。小学生の子供は、普通は「愚民」という言葉は思いつきませんよね。




��月6日の読売新聞の編集手帳では、『普通の子は理由が何であれ、カッターナイフで人を襲ったりはしない[...]十一年間の成育の過程を詳しく調べてこそ、「なぜ」という疑問に迫ることができる』として、命を大切にする教育の重要性を主張し、『三度の食事をしっかり取り、思い切り運動をして汗を流し、基本的な学力をきちんと身につけていく。これができる環境を家庭や学校でいかに作っていくか。それが先決のような気もするのだ。』と結んでいます。子供を調べることは重要でしょうし、事件の背景の鍵にはなるでしょうが、重要なところが抜け落ちてしまわないでしょうか。


読売の言っていることは正しいように思えたのですが、どこかずれています。仮にそうだとしても、読売の態度をちんと子供に示せる大人はどのくらいいるのでしょう。暴力と殺戮場面とポルノに満ち溢れた少年マンガは、子供たちの受けを狙ってどんどん刺激がエスカレートしていっています。「愚民」を教えたのもカッター殺人を思いつかせたのも、大人たちです。


その大人たちは「三度の食事をしっかり」取ることさえできず、そのうちの二度はおろか一度さえ子供と一緒の食事などできないのではないでしょうか。「それが先決」なら見直すべきは、根本から我々の在り方や処し方、ひいては日本のあるべき方向全てを含めてなのでしょう。でも誰もそんなこと議論しません、だからまた起こるのですよ、形を変えて。私たちはエリート学生が歩んだ「オウムの悲劇」さえ清算できていませんし、いまの日本社会は清算する意思さえないようです。


ネットとともに映画「バトルロワイヤル」が悪影響を及ぼしたという論調も大きくなるでしょう。深作監督の「バトルロワイヤル」を評価する人もいるようですが、私は観ていませんので論評はしかねます。ただ、善悪や精神的に発展段階の子供(や子供に類する大人)には、やはり見せてはならないもの、目に触れてはならないものはあるのだと思います。


今のネットではもう倫理も道徳も何もかも吹っ飛んで、なんでもありの状況が無防備に展開されているのが実情です。それを放逐しているのも大人で作っているのも大人なんですよね。「知らなかった」「驚いた」「ここまでとは」「予想を越えた展開」などと言う事は許されません、特にマスコミに当たってはです。


以前も書きましたが、政府や犯罪を批判する雑誌や夕刊紙が、同じ紙面で売春奨励記事やポルノ記事を載せているのですから、どうなっているいのでしょう。些細なことに目くじらを立てるなという意見が大半でしょうが、そんな態度のマスコミの言質を全面的に信用する気にはなれないものです。(もっとも、俗悪な記事のないオピニオン誌も相当に信用ならないのではありますが)

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