磯江氏の絵は、ホキ美術館で接した数点しか知らなかったのですが(今回の作品展を観て、ホキにあった数点が磯江氏の作品であったことに気付かされたということです)、今回は圧倒されどうしでした。写実の重みとでもいうのでしょうか、凄い絵画だなと。「写真のような」という言葉は、観ていてついぞ口をつくことはありません。写真では決して表現しえない、絵画というものが有する力に、ぐうの音も出ないほどに屈服させられたとでも言いましょうか。
磯江氏の画面を支配しているのは、静謐さと儚さ。音もなく積み重なる時間の堆積のようなもの、そしてそこに無限への畏怖と慈しみと愛情が流れているように感じました。人物画が多いのかと思いきや、むしろ静物作品が多い。しかし、これらの「もの」が語る世界の重さや深さは、磯江氏が到達した境地を感じます。
もちろん、卓越した技巧があっての画面構成であり、作品の精度なのですが、作品を作りこむ過程における画家の観察眼とか哲学的感性、そのような無形のものさえもが、画面に定着されてしまっている。それゆえ、静物がが静物がであることを、人物画がそれであることを超越し、神秘と称するには安易にすぎ、しかし敢えて言葉にするならば、存在とか生きることの深淵を垣間見せてくれているのではないかと。宗教的題材を描いていないのに、死生観とか無常とかの感覚を覚えるのは不思議なことです。
そのような絵でありながらも画面が切ないほどに美しすぎる。これは絵として完璧なのではないかと。ホキ美術館で多くの作家の写実絵画を前し、驚きはしても感動はしませんでした。今回、改めて磯江氏の絵画に接し、深いところで静かに打ち震え涙している自分が居ました。
彼は1990年中頃までスペインで活躍し、その後日本にもアトリエを持ちます。1980年後半から90年前半といえば、日本はバブルの時代。あのような狂騒的な世界にあって、海外において日本人がこのよううな絵画を描き続けていたことに、言いようのない驚きを感じます。磯江氏が日本にアトリエを構えてから、彼は日本の中に何を見たのでしょうか。それは作品に変化として表れたのでしょうか。
残念なことに、美術展を観るというのに眼鏡を忘れてしまい、細部まで良く見ることができませんでした。会期中にまた行くかもしれません。
(修正2 2011/08/08)