諏訪さんの最初の作品集は発売数も少量だったらしく、どこも在庫切れ。ネット上では2万5千円程度で取引されているとの情報もあるため、今回の諏訪さんの作品集「どうせなにもみえない」も、手に入らなくなる前にと、発売日とほぼ同時にゲットしました。
諏訪敦さんは、日曜美術館で知った画家。作風は(おせじにも)決して明るくはなく、(ある意味において)美しくもありません。彼の絵は、仮に所有したとしても、堂々とリビングや玄関に「飾る」類の絵ではないように思えます。ごく個人的な内的感情を確認するための絵とでも評したらいいのか、女性の裸像にしても表情にしても、どこか痛々しさが伴います。そして少々確信犯的に偽悪的です。
特に父の死を扱った作品などは、どのように接していいのか、今でも戸惑いを覚えます。諏訪さんが父の死に接して「描くことでしか愛情を表現できなかった」とNHK番組で答えていたのは印象的でした。本作品集には収められていませんが、「ステレオタイプ」というタイトルの作品を描き続けた意味も、逆説的な告発であったように思えますし。彼の絵は幾重にか捩れているように感じます。
そもそも、本作品集や諏訪美術館での同名の展覧会「どうせなにもみえない」という題名が素直ではありません。「誰に」「何が」みえないのか。描かれているモデルが、何かを見ようとしているのに見えないのか、あるいは、画家の描いた絵の内実を、絵を見る人が見えていないのか。「どうせ」という投げやりで幼稚な表現、大の大人が「どうせ~」と表現するときの抵抗と摩擦。タイトルさえ画家の計算なのでしょうか、緻密さを感じます。
作品集には、成山画廊での作品や日曜美術館で特集された「絵里子」も納められています。 こうして、諏訪さんのある時代の作品を見ると、「絵里子」が彼としては少し特異な作品でありつつも、見事に諏訪ワールドを展開していることが分かります。
諏訪さんほどの技量のある画家ですから、描こうとすれば何でも描ける。それなのに、描かれた対象やモデルの、現実感や所在なさとか、美とは少しずれた、どこかに片足をつっこんだ感覚というか。それが何なのか気になるため、私はもうしばらく彼の作品を見なくてはならないのだなと思うのです。彼の絵はきわめて現代的な写実絵画であるのだなと。
こういい加減なことを書き連ねながらも、画布の裏から(画集だから紙背ですけど)透徹する画家の目線を感じずにはいられません。ある意味、試されているかのようです。
(修正2 2011/08/08)