松井冬子さんは、美人女流画家としても有名で、先日ブログにエントリーした成山画廊のオーナーが見出し、諏訪敦さんのモデルにもなっていることで、その名前が私に深くインプットされました。
彼女の絵は、新聞にもあるように「幽霊や内臓があわらになった女性の死体、動物の亡がら」など「人々が目をそむけたり、社会的に排除されてきたものを主題」としています。
はっきり言って「グロい」と思うような作品が多いです。しかし、なぜか目を背けることができないのは、そこに美とか醜い、汚いとかいうよりも、根源的な力のようなものがあるからなのかもしれません。いやいや、そんな難しいことではないのかも。何を見たくて何を見たくないのか、見たくないのはどうしてなのか。
「日常生活に美はない」、美は「自らの想像力で発見するもの」、「作品を創造するのに大切なのは、構築していくこと」という松井氏の言葉は、芸術家としての自覚と厳しさに満ちた発言です。「発見」しても「構築」できなくては表現にならない、だから「技術」と「パッション」が必要と。
何を美とし、何を醜とするのかは、ひとそれぞれ。好きなもの、忌避するもの。松井さんは「まずは自分が何が好きなのかをどんどん突き詰めていくこと」が大切だとときます。自分が本当は何が好きなのか。
ここに素直になることは、制約の多い現代の社会では、なかなかに難しいことでなのだと思います。そこに徹底的に向き合えるからこそ芸術家を志向し、技術を駆使して再構築できるから芸術家なのだろうと。当たり前のことなんですけど、改めて思いました。
好きを極めるこということは、自分の「核」を見つけることにもなるわけで。芸術家には狂気が宿るのは、当然の帰結なんですね。