この演奏は、1976年のものでカラヤンのシベリウスの4番としては最後にして3回目の録音でのものである。カラヤンがシベリウス指揮者の一人であるということは、定評のあるところだ。カラヤンはこの演奏からはシベリウスの何を抽出したであろうか。
第1楽章からそうだが、デイビス版よりもゆっくりとしたテンポで演奏されている。そのため、デイビスを聴いた後に聴くと、雄大さやオーケストラのハーモニーを心行くまでに堪能することができる。また、カラヤン流というのであろうか、ティンパニの響きも激しくまた低弦部分は地響きのような迫力で迫ってくる。また他の演奏でもそうだが、アダージョな部分は耽美的とも言えるほどの美しさで思わずため息がでるほどである。しかしそれゆえにというのが適切かはさておき、デイヴィスで感じたような怜悧さは感じられない。
第2楽章の出だしにしたって、ゆったりとしたテンポは変わらずにオーボエが旋律を奏でるが、田園交響曲を聴くかのような趣さえ、ひと時だが感じてしまう。いや田園的な情緒というよりも都会でワルツを踊るかのような趣のほうが強いだろうか。上品にして典雅であるが、さらに豊穣さを感じる。考えてみれば、シベリウスが死の予感に打ち震え、社交界での思い出に浸っていたという解釈だって間違ってはいるまい。この楽章でもそうだが、表現の幅はあざといほど大きく聴く者をのみこんでしまうかのような迫力だ。
第3楽章は「瞑想的な雰囲気」とか「非現実的な雰囲気」「内的緊張感」などが特徴と本CDの解説には記されている。確かにもの思うかのようなフシや、抑えられたものを感じる部分もある。しかし、どうしてもチェロ以上の弦が奏でる、この楽章全体を貫く主題が強く支配しているように感じてしまう。この交響曲で唯一覚えやすいモチーフであるからかもしれないが、姿や形を変え、色々な断片で演奏されるこのモチーフはシベリウスの散り散りになった思いの現われだろうか。楽章後半で全容を表すさまは、巨大な氷山のごとき寒々とした巨大な感情の塊りを見るかのような気にさせられる。カラヤンは実に見事に、最後の収束に向けてこの楽章を組み立てている。しかしながら聴いていて、R・シュトラウスの交響詩を聴いているような気にならないわけでもない。「あれ、これはシベリウスだったっけ?」てね。
第4楽章はこの演奏でも鉄琴(グロッケンシュピール)が愛らしい。本来は鐘(グロッケン)が使われるような指示らしいが…デイヴィスも鉄琴だったな。カラヤンはエネルギッシュにしてエモーショナルにこの楽章を開始しており、3番以前のシベリウスの曲を彷彿とさせ心地よい。中間部の弦の刻みにのった曲の推進感は見事で、さすがと思わせるつくりだ。オケも十分にドライブして鳴らしまくり分厚い音を作り上げている。強弱のポイントも的確であり見事だ。ラストの終わり方も、大きな悲劇を演じた後に、主人公は舞台に突っ伏して幕というような重々しい雰囲気であり、それはそれで劇的でありかつ感動的であることは否定できまい。
カラヤン・ベルリンのコンビだけあって、オケの個々の技量がボストンと比べると光るし、音響的にも非常に重厚感あふれるものになっている。デイヴィスを素材の味を生かした魚料理とするならば、こちらは凝ったソースをかけたステーキといった趣だろうか。
カラヤン盤も満足を持って聴くことができるとは思うのだが、これがシベリウス的なのかと言うと、少し首を傾げざるを得ない。というのは、ここで表現された音響的世界にしても思索的な組み立てにしても、シベリウスの独自性というものが、逆にこの演奏からは薄まっているように思えるのだ。こういうアプローチなのであれば、素材はシベリウスではなくても良いのではないか、という印象をぬぐうことができない。
しかし、私の言う「シベリウス的」というもの自体が、自分でもはっきりと文章にできないだけに、論点がボケてしまうことは認めざるを得ない。まだ今の段階で「シベリウス的」を表現することができない。ただ、一つだけ言うとするならば、カラヤンの世界は饒舌にして豊穣すぎる音楽であり、シベリウスの目指した(と私が考える)簡素さとか無駄のなさという方向とは逆の世界であると感じるのである。彼の描いた世界は、暗くはあっても限りなき美しさに彩られているのだ。
だからといって、この演奏が価値のないものだとは全く思わない。演奏から受ける感動は紛れもないものであるし、このような演奏があってこそであるのだから。
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