年功序列から能力主義への移行は、私の勤める旧態依然とした会社でもささやかれ始めた考え方だ。
「努力すると報われる」というと聞こえは良いが、つまりは「努力しない者は報われず」「努力しても成果を上がられなかった者も報われない」ということを意味している。
企業によっては、行き過ぎた成果主義(結果重視)から、経過も重視する方向での評価制度を導入し始めた企業もある。望ましい方向のように思えるものの、「評価」の客観性を更に難しくするものという懸念もある。いずれにしても、「勝ち残る」者はごく少数であり、あなたも私も、勝者たることはないという世界だ。
このような世界が、「望ましい方向」なのだろうか・・・・??? 企業も政治家も、どんな社会がお望みなのか?今の私には、何が薔薇色かはわからない。
ところで、努力をするかしないかは、個人の選択である。公平ではなく公正な社会とは、機会がだれにも均等である社会であるのかも知れない。しかし、既にして、生まれたときから人は機会均等ではない。機会が均等でなければ、望ましい方向とは、敗者(というと語弊があるが)復活できる社会であるか、ということになるのだろうか。
そういう観点から今の社会の仕組みを見たときに、二世議員が跋扈する政治家達に、敗者ならざるを得ずにいる人たちのことが分かるだろうかと思いはじめた。
いや、そもそもだ。ここでいう「敗者」とは何のことなのだと自問せざるを得ない。地位と権力と財力が得られれば勝者か? しかし、それではばかばかしすぎる。
「努力の報われる社会」とは良く言われるが、「努力」を何を求めてするのか? 努力しなくちゃダメなのか? 全てが分からなくなってくるのであった。
久しぶりに書き始めたら、考えが発散してしまった。こういう袋小路的な考えに陥るということは、今の社会に哲学や宗教的などメンタルな部分が欠如しているからという気がしないでもないのであった。だからと言って、五木寛之とか池田大作なんかの著書を読もうなんて、思いもしないけどね ♪(*^-゚)⌒☆
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