2006年3月6日月曜日

クラシック音楽の垣根・・・?

岡田暁生著「西洋音楽史」のエントリに対するぽん太さんコメントを読んで、あれこれと考えていたところ、音楽ジャーナリスト林田直樹氏のブログ(LINDEN日記で引用されていた石田衣良氏の言葉がたまたま目に止まりました。

石田さんはモーツァルトや現代音楽などがお好きだった理解しています(確かロマン派はダメみたい)。

「実は本当に一番素晴らしいのは、芸術そのものではなくて、それを『素敵だ』『面白い』と感じることができる人の心である。三百年前のオーストリアの作曲家が注文仕事で書いた音楽を聴いて心から感動できる。人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ」(石田衣良)

全く同感。クラシックの敷居をすごく下げてくれる言葉ですね。「大作曲家の残した偉大な音楽」という権威よりも大事なもの、それは「聴き手の感受性」だと言っているのですから。

え? 本当にそうなのか?素晴らしいのは聴く人の心で、感受性が一番大事であるということ。

それはそうなのですが、魚の小骨のようにひっかかる言葉です。私の深層のどこが「違う」といっているか、掴むことができません。従って、このエントリは批判ではなく留保です。芸術を「面白い」と感じる心がなければ、その芸術がどんなに偉大な可能性を秘めていても当人にとって意味のない(つまらない)ものであるということは対偶として真でしょうか。

私は芸術が、作曲家の思想や理念こそが個人を凌駕すると思ってはいません。また、芸術の権威やブランドをことさら持ち上げる気持ちも、できるだけ少なくしたいと思っています。万年クラシック初級者の私のこと、ついつい有名作曲家の評価の高い演奏ばかり聴いてしまいがちですから。自分の目や耳を信じて、これが「良い」と感じること、すなわち自分の感受性や感性を信じて評価するということは、意外にも物凄く難しいことだと感じています。なぜなら、今まで積み重ねてきた自分が全て露見される瞬間だからです。

仕事の場面においても、「女性的感性」だとか「感性の豊かさ」が必要などという場面に遭遇します。感性は何もないところから生まれてくるものではないし、生まれつきのものでもない。それこそ、裏で磨いたり研ぎ澄ましたり鍛え上げたりすることをして、初めてキラリと光る感性が生まれる。感受性というのは、そういう極めて自発的で主導的な活動を通じた末の偶発的な産物であると思うのです。磨かれた感性は、モノの本質をズバリと見抜くことも場合によっては可能でしょう。

内田樹氏のブログにある以下の文章が、似たようなことに言及しています。(内田樹 研究室「言葉の力」より)

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」

では、そういう練磨の上での感受性がなければ、例えば西洋芸術音楽(クラシック)を受け入れることができないかといえば、これまたそうでもない。ある瞬間にあるフレーズを聴いてバーン目覚めることもあれば、これってイイね、としみじみと思うこともある。しかし、何故目覚めたのかを自分の中で追求すると、感性の変化を生じた遠因がどこかに潜んでいることに気付くはずです。

ところで石田氏や林田氏の発言は『自分達の好きなものが素晴らしいもので、感受性の豊かな貴方達が聴けば、きっとどこかで「感じる」部分があるはず』ということをは一方的に期待しています。その発言の裏には、そういう音楽を、自分達はやっぱり素晴らしいと感じていて、感動できる自分達の感性が素晴らしいと認めています。では、そういう音楽を「面白い」と感じられない『感受性』の存在を彼らはどう考えるのでしょう。『え?こんなに素晴らしい音楽を「感じられない」なんて、君たちの心のキャンパスは濁っているのか?』とは言わないでしょうが。

こんなことをついつい無意識のうちに考えてしまったので、彼らの無邪気で無自覚な感受性賛歌には一瞬ひっかかってしまったようです。私のこういう回りくどい感じ方や態度こそが、知らずのうちにクラヲタ的偏狭さに陥ってるという査証なのでありましょうか。あるいは、今読んでいる本の影響でしょうか(その話題はまたいつか)。

ぽん太さんの問いには未だ答えられず。

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