『カラヤンがクラシックを殺した』の著者である哲学博士 宮下誠氏のブログがあります。3月11日のエントリ「音楽はただ聴くためにあるのか?」で同書と同じような論旨を展開していました。気になるテーマですのでメモしておきます。
あの、即物に徹した、にも関わらず様々な内包物を潤沢に孕んだ音楽に対して「聴くだけ」なる姿勢は許されるべくもありません。
音楽は感覚の悦びであると同時に認識の歓喜だ、
この「認識」を宮下氏は「悟性」という言葉に置き換え、単なる「感性」だけの音楽を鋭く批判します。「悟性」とは普通はあまり使わない言葉です。「認識」とか「知性」「理解力」と解されることが多く、英語では「understanding」となるようです。私も高校の教科書で接して以来、日常的に使用した記憶のない単語です。哲学者である宮下氏が使うのですから、カントやヘーゲルの悟性論までを理解しないと、彼の「嘆き」には共感できないのかもしれません。
感動!!!
そういえば全てが許される、この世界の風潮は、一億総愚民化の一支流に他なりませんん。
安っぽい「感動」の氾濫には私も辟易です。一方でたまには理屈もなく呆けたように「感動」したいことも確か。
神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。
こう書いたのは『西洋音楽史』の著者 岡田暁生氏(→Clala-Flalaエントリ)。
「悟性」の欠落は神なき現代の、更なる精神的な不毛に帰すべき現象なのでしょうか・・・?? 素直に「感動する」ことを批判する姿勢には、反論も多いと思います。私の中では無視はできないものの結論付いてていない問題です。そんなこと考えずに、ただ音楽に浸ったほうがよかろうとは思うんですけどね。
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