「文藝春秋」2月号に、エッセイストの中野翠氏が『歌舞伎座取り壊し 私は許せない』とする文章を寄稿していました。彼女は六代目歌右衛門を通じて歌舞伎に親しんできたというほどの方。
彼女は、単なるノスタルジーや建築意匠的なもののみに反対の理由を求めるのではなく、歌舞伎を演ずるということの重層的な楽しみ
というこから説明しようとしています。
すなわち、歌舞伎というものは、代々と受け継がれた演目を、世襲で継承している役者が演ずるという歌舞伎の構造的な本質と、それを「同じ場所(舞台)」で演ずるということ。
それが歌舞伎を長く見続けたときの重層的楽しみ
なのであると書いています。この「重層性」こそが、由緒ある劇場には必ずある心をしんとさせるような妖気やオーラ
につながるのだと。
今の舞台に昔の舞台の「記憶」が重なる
このような意見を読むと、歌舞伎を始めて見る人や、全く見ない人には、何のことやらでしょうか。一部の特権的観客の愉悦に過ぎないのではないかと、冷淡な態度をとる人も居る事でしょう。しかし、そのような「重層的な記憶」こそが伝統とか伝説につながり、それが極まれば、ファンからは「聖地」と崇められるという現実もある。
一方で女性らしい、下記のようなコメントには思わずニヤリとしてしまいます。
(国立劇場では)女を引き付つける俗っぽい華やぎや色気に乏しい。伝統芸能を楽しむのではなく鑑賞するという感じ。
まさに!です。1階のお土産屋あたりから漂う、甘い金つばやたい焼きの匂いや、俳優の生写真などなど・・・。
このような下らない価値観こそが「文化」という目には見えないものの、とても大切な一部のような気がするのです。それゆえに、気配に敏感な方々は単なる更新や再生ではなく「破壊」とうつる。いったん破壊されたものは、絶対に再構築されないことを分かっていますから。
例えば、今話題の東京中央郵便局の建替え問題。こちらも部分保存の範囲を拡大する方向で決着が付くそうです。こちらの建替えは、なにやら政治的なにおいがして賛同できない部分も多い。単なる形骸化した建物と、歌舞伎座を一緒には論じられないと思いますが、いかがでしょうか。
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