8月30日の衆議院議員選挙に向けて、各党のマニフェストが出揃いました。今回は「政権選択選挙」なのだという触れ込みで、民主党は悲願の政権奪取に向けて必死です。対する守りの自民も日本を守るのは自民だとばかりに抗戦しています。
マスコミはやたらと対立軸をあおりますが、そもそもが、自民も民主も「誰に向けての政治」であるのかが問題です。自民はかつては農村票を母体としていました。今では農村支持は民主のものでしょうか。都市の浮動票やサラリーマン票を狙うのは自民なのか民主になるのか。
「<国民>の生活を守るのはどの政党か」と麻生首相は問いかけます。格差社会を増長させ経済を疲弊させたという反省と責任は自民にはないかのごときです。しかし<国民>と一言でくくれるほどに、日本は単一ではない。都市住民も居れば、地方住民、農漁村住民も居ます。農民であっても都市近郊農民と稲作農家では全然違う。新富裕層も年収200万円世帯も<国民>。高齢者とか子育て世代、あるいは大企業、中小企業、役人とか自営業とかの軸もある。疲弊した産業には<国民>ではない労働力も注入されている。
各政党は誰の利権を守ることを政策の基本としているのか。逆に言うと、自分の属する枠組みをどこの政党であれば守ってくれるのか。<全国民>が、今よりも更に<利得に与る>社会は目指しようがないことだけは確かか。
<国民>という枠組みが複層的な枠組みの中にあり、それぞれが何らかの「既得権益」を有し恩恵にあずかっている。昨今の派遣切りとかフリーターは、既得権益から完全に排除された人たちといえます。既得権益は時代とか世代により異なり、本人能力を超えた偶発的な要因で決定されることが大きくなってきている。これは不可逆な流れなのか。政権を代えれば流れが変わるのか、漠とした期待はあっても実は誰も分からない。
日本は、そして日本の政治システムは疲弊しているという見方は当たっている。<疲弊から回復した後の日本>をどれだけイメージできるか。ここは観念的ではありますが、もう少しマジメに考えられても良い。
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