昨年の東芝EMI「ベスト・クラシック100」に引き続き、クラシックのサビだけ集めた部分のCDなどが売れているのだそうです。似たような企画は
- 「どこかで聴いたクラシック101」(ユニバーサル)
- 「100曲モーツァルト」(エイベックス)
- 「クラシック・ベスト200」(ワーナー)
- 「ベスト・オペラ100」(東芝EMI)
- 「ベスト・モーツァルト100 6CD』(東芝EMI)
などで、かつての「アダージョ・カラヤン」のブームをふと思い出させます。
こういうCDの普及がクラシックファンのすそ野を広げることになるのかは議論の分かれるところ。昨今の「モーツァルト効果」「モーツァルト・セラピー」などの紹介のされ方と受容を含め、流行が過ぎ去った後に何が残っているのかが問題となるでしょう。
忙しい(とされる)現代人にとって、クラシック音楽は「長すぎる」娯楽です。映画だって2時間を越えると「いい映画なんだけど長すぎ~」という感想が目に付きます。コンサート・ホールやオーディオの前で1時間以上もぢっとしていることに耐えられない人も増えてきています。長時間にひとつのことに没頭することがなくなってきたということなのでしょうか。ロックやポップス系の曲でも1曲5分近くになると「長い」と感じる傾向があるようです。
じっくりと物事に取組めないという傾向は、例えば映画や演劇、出版業界にも当てはまるのではないでしょうか。映画はテンポの速さと刺激の倍増に反比例して内容は薄くなる。ベストセラーとなる新書は本の値段と厚さの割には活字数が少なく、結論ありきの理論の飛躍が目に付く。歌舞伎も刺激とスピード感のある勘三郎に人気が集まるなどなど・・・。こういう傾向は「白か黒か」というように単純化された理論が受けている最近の傾向とどこかでつながっている気がしないでもありません。(と、こういう考えそのものが、結論ありきの論理の飛躍ですが)
話を戻しますと、クラシック音楽は十八世紀頃から二十世紀における西洋の思想を代弁していたとする許氏の指摘には一理あると思っています、「普遍性」「真実」「真理」「理念」「理想」などが「嘘っぽい」「欺瞞である」という認識の土壌に現代人が立っているならば、クラシック音楽は耳障りの良い、あるいは爆音でストレスを解消させる、といった効用しかなくなるのではないかと思うのです。クラシックの断片化と商品化は、堪え性のない現代人の志向を強化することはあっても、その中から「のだめ」と「ベスト100」から脱皮した21世紀的クラシック・ファンが大勢育つと考えるのは楽観的かもしれません。それであっても「音楽の持つ根源的な力」を信じる人は、聴く人をいつしか目覚めさせることができるという希望を抱くのでしょうか。
〔追記〕 とここまで書いて、気になるブログのエントリが2件。
Syuzo's Weblogで紹介されていた「西洋音楽史」、これは是非とも読んでみなければ。次に「おかか1968」ダイアリーでの「クラシック音楽 ネット界での明暗」とうエントリ。西洋音楽(クラシック音楽)の受容のされ方は、私の固定観念を超えるとこころが、もしかするとあるのかもしれないなと。(February 10, 2006)
0 件のコメント:
コメントを投稿