2005年1月25日火曜日

「振込め詐欺」の巧妙化

最近は「オレオレ詐欺」とは言わないらしい、「振込め詐欺」というのだそうです。動詞+名詞という組み合わせが日本語的にオカシイということはさておき、その他モロモロの詐欺まがい行為が最近あふれており、その手口は悪質かつ巧妙化しつつあるようです。


「ワンクリック詐欺」「フィッシング・メール」などの手口も非常に悪質ですが、ついつい引っかかってしまう人も少なくないかも知れません。最近も「ヨン様」の画像をファンサイトのように「なりすまし」て送りつけ、写真をクリックしたらスパイウェアか何かをインストールしちまうというものもあったようです。カード会社などを偽るものも日常的だとか。


ブラウザ論争では、IEの脆弱性は有名ですが、Firefoxにも脆弱性が見つかっただの、Firefoxを擁護する人は、ブラウザの脆弱性よりはフィッシングに引っかかる「間抜けなユーザー」が脆弱なんだ(As far as a 'security hole,' it should be more of a user vulnerability, as only a dumb person goes clicking links in e-mails from odd places,:原文)とか・・・いやはや


あるいは、CNNのヘッドライン・ニュースを偽ったメール配信し、もっとニュースから情報を得たいと思う人をひっかけるというものもあるそうです。今週のAERAによると、個人のHPから個人情報を収集した上での「劇場型」「振込め詐欺」というのもあるそうで、ネット上に個人情報を置くことの危険性も考えなくてはならないようです。


最近の犯罪を見るに付け、何か今までのモラルが崩れ去り、蓋があいたというか、底が抜けてしまったかのような印象を日々受けるとともに、犯罪に対する防衛意識を高めなくてはならないというのは、何ともやっかいです。その延長には犯罪国家であるアメリカの姿がちらつきますから、なおさらに憂鬱です。

2005年1月23日日曜日

歌舞伎座:新春大歌舞伎

歌舞伎座で新春大歌舞伎を鑑賞してきました。実のところ、私にとってはこれが初の歌舞伎鑑賞となります。昼の部は4階の幕見席で最初のニ演目、夜の部は3階席にて三演目を鑑賞。一日じゅう歌舞伎の世界のどっぷり。ああ、何て幸せな世界なんでしょう、これではハマる人が居るのも分かります。

松廼寿操三番叟での三番叟演じる染五郎の踊りの軽妙さ、梶原平三誉石切での梶原平三役の吉右衛門の貫禄、鳴神での鳴神上人演ずる三津五郎の大見得、土蜘蛛での吉右衛門らの大立ち回り、そして魚屋宗五郎での幸四郎の酒乱ぶり。どれを取っても楽しめ、今でも頭の中で囃子や化粧声、ツケの響きなどが頭の中で鳴っています。演目は下記。

��昼の部>

  • 松廼寿操三番叟 長唄囃子連中
  • 梶原平三誉石切 一幕
  • 盲長屋梅加賀鳶 四幕六場
  • 女伊達 長唄囃子連中

<夜の部>

  • 鳴神 一幕
  • 土蜘 長唄囃子連中
  • 新皿屋舗月雨暈(魚屋宗五郎) 二幕

それに歌舞伎座内の売店には、その場で焼いている人形焼、きんつば、鯛焼きなどの餡ものが所狭しと並んでいて、甘党なら一瞬でクラクラしそうな空間が展開されています。嗚呼、暖かい"きんつば"のしっとりとした肌さわり!かくいう私もクラクラし通しでした。

で、帰ってTV付けたら、中村勘九郎がSMAPの香取クンと歌舞伎について語っていました、歌舞伎を盛り上げようとしているようですね。

いままで、こんな世界をしらなんだとはァァァ~、ほんに、なんと、おろかなことざんしょオオ~。テケテンテンテン・・・イ ヨオーっ! 「成駒屋!」 ああ、おいらもはやく掛け声を掛けてみたいものよのう>早すぎるって。

2005年1月18日火曜日

期待の新人ヴァイオリニスト

「おかか1968」ダイアリーでニコラ・ベネデッティ(17)というヴァイオリニストが破格のデビューを飾るというエントリー。


実力の程は分からないけれど、とりあえずメモしておきましょう。それにしても


Nicola was born in Scotland in 1987 and began violin lessons at the age of 5. In 1997 she entered the Yehudi Menuhin School, where she studied with Natasha Boyarskaya. While at the school she performed as a soloist in venues including the Royal Festival, Queen Elizabeth and Wigmore halls. In 1998 she was one of the soloists in Bach’s Double Concerto under Menuhin at the opening ceremony of the 50th anniversary of the Declaration of Human Rights at UNESCO in Paris.


BBC Young Musician of the Year - Final. Strings


だそうで、早熟ですなァ、たいしたモンす。

ルックスやスタイルなどは音楽とは無関係ですし、好みもありましょうけれど、「商品価値」なんて概念から、ボンド・ガールのようになったら、オシマイだとは思います・・・ひそやかに正しく育ってくれることを祈りましょう。

2005年1月17日月曜日

あなたは普通の政治家ぢゃないんだから

今日のサンデープロジェクトで安倍衆議院議員が、いつにない不機嫌な表情で疑惑を否定していました。 ことの真相は分かりませんが、火のないところに煙は立たず、立った煙を消すのもひと苦労てか。というか、何故この時期にとかイロイロ裏はありそうですが、バックドロップをくらわないように祈るのみです。
「NHKを呼びつけた」「番組内容を変更するように圧力をかけた」という報道や発言は全くの誤りである。昨日私が事実誤認を指摘するコメントを発した後も、引き続きそうした報道が行われているのは、誤りというだけでなく悪意に満ちた捏造と言わざるを得ない。

衆議院議員 安倍 晋三

安倍氏のブログより

「あなたは普通の政治家ぢゃないんだから」は、田原総一郎氏が安倍氏にカマをかけている時のせりふ。

2005年1月15日土曜日

アルフレッド・コルトー/ショパン:練習曲ほか

アルフレッド・コルトー/ショパン:練習曲集ほか
  1. 練習曲集 作品10 1933年7月 ロンドン
  2. 練習曲集 作品25 1934年6月 ロンドン
  3. ハンガリー狂詩曲 第2番 嬰ハ短調1926年12月
  4. ハンガリー狂詩曲 第11番 イ短調1926年12月
  • PHILIPS PHCP-20585/6

現代においてショパン弾きといわれる優れたピアニストが多いのに、今更SP時代の古色蒼然としたコルトーのミスタッチばかりのショパンを聴く必要があるのだろうか、などということは考えない。私はあまりショパンが好きではありませんし、そもそも、どこでミスタッチしているかなんて、分かっていないのですから。それでも何気にコルトーの盤を聴き始めたら止められずに何度か聴いてしまいました。

コルトーのピアニズムから漂う気品と素朴な暖かさ、あるいは言い方は悪いかもしれませんが、泥臭さというのでしょうか。これらは洗練の極みとは対象的ですが、浸りきると非常に心地よいものです。ショパンというと聴いていてどこか疲れてしまい、ついおなかがいっぱいになってしまうのですが、彼の演奏はやさしく滋養となって体にしみ込んでくるようです。演奏の技術的なものを補うような、ある種の雰囲気をもった演奏といえるでしょうか。現代では決して聴くことの出来ない演奏かもしれません。

例えば作品10 第6番とか作品25 第1番など、絶品の味わいです。また作品10 第12番《革命》の力強さときたらどうでしょう。無骨過ぎるきらいはあるかもしれませんが、それはそれです。

無骨といえばリストのハンガリー狂詩曲などかなりのもの、演奏も1926年のものになってしまいますからノイズもひどくなってくるのですが、それでも聴けないほどではありません。しかしそういう中にも、非常に繊細な一面も聴けたりして、そこに詩情を感じたりします。

2005年1月13日木曜日

テンシュテット&NDR/マーラー:交響曲第1番「巨人」

マーラー/交響曲第1番「巨人」
  • テンシュテット(指)NDR
  • 1977.11.14
  • MEMORIES

Syuzo's Homepageの「テンシュテット:禁断の部屋 テンシュテットを聞く 第13回 2000/1/4」で紹介されている盤のひとつであると思うのですが、CDの録音年月日が1977年11月24日となっています。Syuzoさんのサイトでは、おまQさんの推定によるとただし書きがあるものの、1981/6/16? (LIVE)となっています。FIRST CLASSIC盤と同一音源であるかは私には判断できませんが、CDショップ・カデンツァの解説ではともにFirst Classicsが初出だった音源だが、その素晴らしさからすぐに売切れ&廃盤となり、とありますから、1977年の演奏なのでしょう。

前置きが長くなりましたが、Syuzoさんも指摘のとおり、これも並外れた演奏として聴くことができます。音質はちょっと抜けが足りないようですが、ノイズなどが気になるようなものではありません。テンシュテットの演奏は完全に突き抜けていますので、ライブの迫力に浸るには充分といえましょうか。NDRは「復活」もそうでしたが、特に低弦の音色がただものではないです。

マーラーの交響曲の中で1番は、演奏会でもCDでも比較的耳にする機会が多いのですが、ここに聴かれるような硬質で彫の深い演奏は捨てがたい魅力があります。私などがテンシュテットを語ることなどおこがましいのですが、彼特有の推進力、そして激情的ではあっても感情に溺れずに制御された演奏を、ここでも聴くことができます。例えば第三楽章のマーラー特有の美しく甘い旋律にしても、耽美に流れることはありません。

第四楽章も冒頭から畳掛けるかのような表現が圧巻です。『ここで英雄はうち倒された』とのことですが、一体何回打ち倒されたんでしょうね、徹底的に痛めつけられてるつーか・・・。痛めつけた後に甘美なメロディも冗長すぎないという感じ。ラストへの流れも凄いのですが、最後の2音が急に音圧が下がってしまうのは興ざめ、拍手をカットしたためか?。 ブラボーとブーイングが飛び交った伝説の演奏とのことですが、ブーイング派はどんなマーラー像がお好みでしたでしょうかね。

2005年1月12日水曜日

ワーグナー本

Syuzo's Weblogで吉田 真著「ワーグナー」の紹介ありました、要チェックですな(つーかSyuzoさんのサイトからのネタが続くな・・・)

考えてみたら「CDで聴くはじめてのワーグナー」のシリーズは、昨年3月に「ラインの黄金」を聴き始めて止まったままです・・・まいいか。

2005年1月10日月曜日

テンシュテット&NDR/マーラー:交響曲第2番「復活」

  • テンシュテット(指)NDR エディット・マティス(S)、ドリス・ゾッフェル(Ms)
  • 1980.09.28
  • MEMORIES

Syuzo's Weblogと夢遊的日録さんのサイトにて、テンシュテット&NDRの「復活」が発売されていることを知り、年末にCDショップ・カデンツァに注文、聴くのを楽し非常に楽しみにしていた盤でした。ところが年末に帰省してCD棚をごそごそとやっていたら、なんとこの演奏はLUCKY BALL盤で既に入手済ではありませんか、マーラー交響曲第1番は持っていませんでしたから、それほど落胆はしませんでしたけど。

購入したときのレビュウがないので、あまり感動しなかったのだろうか?と訝りながらLUCCKY BALL盤を年末に聴いてみたのですが、いやはや、冒頭からの抉り込むような弦の響きに全身ぶちのめされ、そして圧倒されまくった1時間半でありました。本当に空恐ろしくなるような演奏です、こんな演奏が存在するのかというほど。

で、その時の衝撃をもう一度ではないのですが、MEMORIES盤でしつこくもまた聴いてみました。すると、あれ?という印象なんですね。再生装置が違うというせいもあるのか、何か抑え気味な演奏に聴こえてしまいます。冒頭の殺されるのではないかという迫力も半減しています。これは録音の質の問題でしょうか。いずれにしても、凄い演奏であることに変わりはないんですが、機会があれば聴き比べてみたいところです。

2005年1月9日日曜日

Googleについて

確かにビジネスとして考えた場合、Googleは画期的でありMicrosoftの出現に匹敵するという人もいます。IT関連のブログやサイトではGoogleとYahooの比較記事など、多方面から研究されています。"Googleは神か?""などという問いかけさえあるようです。こちらこちら(ちょっと古い)。自慢ではないが、どちらもまだ真面目に読んでませんが。


東芝と富士通とNECの時価総額を全部足し合わせても、創業からたった六年、わずか二千七百人のグーグルの時価総額に及ばないのはなぜか。いったいグーグルとは何なのか、その台頭は何を意味するのか。

産経新聞「正論」 【正論】米ミューズアソシエイツ社長(在シリコンバレー) 梅田望夫: IT産業の潮目が読めぬ日本勢 モノづくりの強さ過信を危惧す 《米国で進むパワーシフト》(2005年1月10日)




2005年1月8日土曜日

レクサス・ブランドのエントリーについて

成熟した産業、あるいはコモディティ化した産業において、他社との差別化を図ることの難しさは、マーケティングや開発、営業の最前線に籍を置いていなくとも、毎日身にしみて感じている人も多いと思います。

擬藤岡屋日記にエントリーされていたMisleading ~ Lexus in the U.S.は興味深く拝読いたしましたが、私が一番注目した点はココ。





  1. それまでのカー・ディーラのイメージを一新するような豪華な内装の店舗と洗練された接客を教育されたスタッフ。

  2. 時に顧客と接触するメインテナンス作業員の制服(所謂つなぎ)は1日2度着替えさせる。

  3. 週末には無料洗車サーヴィスを実施し、その際にはフリー・ブレクファーストを提供。

  4. 顧客に代車を提供する必要がある場合には、レクサスの最高級グレードを提供。

  5. シカゴのレクサス・ディーラでは顧客がオヘア空港の朝一番機の搭乗前に車を預けられるように、朝5時からメインテナンス工場をオープン。

  6. レクサスの中古車としての価値を維持するため、周辺地域の中古車ディーラの在庫に目を配り、中古のレクサスが市場出た場合はレクサス・ディーラが即座に買い取りメインテナンスを施し自ら販売する。




企業は何を売るのか、商品とともにサービスにおいて顧客満足を獲得し付加価値を付とするということは、分かっているようでいてその実できてはいないことが多いと思います。中国に売却して話題になったIBMのPC部門の責任者は「安値で業界一ではなく、顧客満足で業界トップを狙う」とどこかに書いていました。


顧客が何を一番求めているかは、机に座っていては一生分かりません。企業には現場からの顧客体験を分析し戦略へと変えるスピードと柔軟性が求められます。


古くて新しいテーマですが、私の属する業界においても、安値戦争だけではない最後の生き残りの鍵があると思っているのですが、現場の声のフィードバックは大きなうねりとはまだなりません。

また、レクサスの成功の一因である、新富裕層にターゲットを絞ったマーケティング戦略、徹底したブランド・マネジメントによるブランド・エクイティの獲得など、研究すべき点は多い事例でしょう。日本も二極化してゆくなら(良い悪いは別として)、セグメントの再構築だって必要なわけです。

IBMのPCからの撤退が示すものは・・・?

昨年12月8日に発表されたIBM PC事業の中国聯想集団への売却、および1月3日の日経新聞で報道されていた日立製作所の「パソコン利用全廃・専用端末で情報漏洩防止」という記事は、ポストPCというようなものを予感させるものがあります。


DELLを思い出すまでもなく、PCはもはやコモディティ化してしまいましたが、それでも事業を続けて利益を得る、あるいは差別化や優位性を維持し続けるには、低コストの追求による薄利多売か付加価値の高いサービスにて稼ぐかの選択しかないわけです。


IBMはPC事業からの撤退は、事業を継続しても負債を重ねるだけだと判断した結果でしょうが、IBMはもしかすると、もっと付加価値の高い新しいアーキテクチュアの登場を見据えているのかもしれません。




そんな中で目にした日立製作所のPC全廃の記事。目的は個人が会社の情報を漏洩することの防止策であるとのことですが、企業はよりセキュリティが高く効率の良いシステムへ移行してゆくことの先駆けであるように思えます。


思い起こせば、80年代後半からMS-Windowsの発売に伴い爆発的にPCが普及し、90年代後半にInternetの普及により、ネットワークの構築がビジネスモデルまでも激変させてきましたが、IT産業においてもひとつの時代が変わりつつあるのでしょうか。


このような変革の激しい時代において、企業の生き残り戦略は熾烈を極めているようで、1月4日の日経新聞では、船井電機の戦略が掲載されており、なるほどと思った次第。いわく、デジタル家電などの最先端技術は投資も多い反面、技術が日進月歩であるため利益も見込めない。それよりは、比較的安定した製品においてコストダウンを図り、多量に売る。これはこれで見事かなと。



日立、社内業務でパソコン利用全廃・専用端末で情報漏えい防止


 日立製作所グループは社員が業務で利用するパソコン約30万台を全廃し、情報漏えい防止型のネットワーク端末に切り替える。新端末は内部に情報を一切保存できず、盗み出されても顧客情報や製品開発情報などが流出する危険がない。機密情報の流出防止が企業共通の課題に浮上するなか、パソコンメーカーでもある日立のパソコン全廃は、企業の情報システムのあり方を大きく変えそうだ。


 企業への罰則を含めた個人情報保護法の全面施行を4月に控え、国内企業は情報流出防止を強化している。従業員による情報の不正持ち出しやパソコンの紛失・盗難への懸念は強く、日立は新型端末の外販にも早期に踏み切る計画。

(日経新聞Web版 1月3日07:00


2004年12月27日月曜日

手帳

パソコンやPDAでの情報整理も良いのだが、手帳にも変な愛着を持っている。通常は仕事用の会社で配布される「能率手帳」のようなもので充分なのだが、その他にバイブルサイズのシステム手帳を3冊(リングサイズがそれぞれ違う)、名刺サイズのリフィル1冊、MOLESKINの無地手帳、電子手帳(って最近言わんな、PDAだ)CLIE、ときどき文具店に行っては買ってしまう小さなメモ帳などなど・・・まあ、そんなにどうやって使い分けるのかと思うのだが、それらをグルグルまわしながら使っている。


で、今日は、LOFTへ行って、つい「ほぼ日手帳」を買ってしまった・・・


うーん、来年のメイン手帳はどれになるのだ? 教えてくれっ! ということで、年末に突入、さらば。

キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵


今年もいよいよ残すところ後数日になってしまいました。明日は個人的な忘年会を二つ掛け持ちして、怒涛の師走が終了します。ブログの方も、これがが本年最後のエントリーになりそうです。

キーシン
  1. ムソルグスキー:展覧会の絵
  2. トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
  3. ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
  4. 組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
  • キーシン(p)
  • 2001年8月4,5日、フライブルク
  • RCA 09026.63884

この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。

凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。

対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。

録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。

冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。

とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。

An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、

ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。

ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。

時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。

2004年12月24日金曜日

いまさら「電車男」

今年のネット界を騒がせた話題といえば、Googleの隆盛、ブログの流行、そして「電車男」ということになるのではないかと思います。「電車男」は新潮社から本にまでなって、しかも50万部突破というのだから驚くばかりです。


今更「電車男」の話題を書くのも何なんですが、「電車男」本が(私の)職場の忘年会でビンゴ景品になったりするほどなので、つらつら考えたことを書いておこうかなと思ったわけです。


板が熱くなったことと本が売れるていることには大きな違いがあるように思うのですが、それはさておき、「電車男」というのは周到に用意されたストーリーなのではないかと思っています。電車男が実在するかどうかはネット上でも話題になっているようです。それを読むほどにヒマではありませんので、以下は私の考えたことです。




確かに「電車男」の話題は、読むものを「熱く」する何かが潜んでいます。秋葉ヲタクが変身してゆくさまは、驚きと同時に小気味よささえ感じます。ダメ男(女)が恋によってどんどん素敵になってゆくというのは、根強い変身願望とともに、よくあるストーリーのような気もしますが十分に感動的です。


ネットで通して読むとちょっと疲れますが、途中で止められなくなるほどにエンターテイメント性があります。電車男を軸としながら、名無したちの脱線しがちな妄想も笑えます。この電車男を応援する無数の名無したちが、なんだかイイやつらばかりなのも泣けるところです。


「まとめスレ」ではスレッドを上手く編集していますから板特有のアラシもなく、全体的に肯定的で前向きで暖かな、そして熱い雰囲気が持続され感動のラストをむかえます。掲示板ですから投稿時間も示さており、それが展開に緊張感を与えています。


今までの小説と違うのは電車男の行動に名無したちが関与し、それが次のストーリー展開に影響を及ぼすした点であることは、読んだ方ならば納得するでしょう(実際はそれほど行動に対する「関与度」は高くないのですが)。板の前の応援者たちは電車男が帰宅し彼の放つデート報告=爆弾を、期待と不安と"喜び"と"痛み"を持って待ちわびます。彼らが自らの秘めた思いを板にぶつけ、電車男がひとつづつ難関を突破してゆくさまは、RPG的といえるかもしれません。


「電車男」を新たな小説の試みと絶賛する人は、このような参加型の小説に対して期待を寄せているのかもしれません。(村上龍がそんなこと、とっくにやっていたように思うが、ちょっと違うか?)


「電車男」の中で注意すべき点は、彼が変身してゆくことではなく、相手の女性が極めて理想的に描かれている点ではないかと思います。電車男を半歩リードしながらも暖かく電車男を受け入れてゆくエルメス子は、あるタイプの男性達の、まさに理想的な女性像を示しているように思えます。彼女は電車男を一度たりとも否定も拒否もせずに暖かく迎え入れます。私は最後まで読んでも、エルメス子をリアルな女性として想像することができませんでした。これこそ秋葉ヲタクに代表されるような名無したちの妄想上の聖母なのではないかとさえ思ったわけです。ここらへんは、かなり偏見が入っているかもしれません。


電車男のスピーディーな変身と理想の女性像が余りに出来すぎであるため、これは周到に準備された都市伝説創造の試みではなかったのか、「書き手」と名無したちとのコラボレート作品なのではないかと疑うわけです。女性が板と出版という二度の行為によってプライベートの暴露を許容していることも私の常識を越えています。


「電車男」は、ヲタクだのゲーマーだの、ひきこもりだの、ニートだのでくくられ、リアル社会との絆を見出しにくくなっている彼(彼女)ら、リアル社会に憧れながらも失敗と失望を繰り返すことで、自らのプライドを守るためには自虐的になるしかなく、自分の中に閉じこもりがちになる者たちへの、エールとして描かれたラブストーリーなのかもしれません。(おっと、ニートの姿は「日本外交」そのものの姿なのではないか、もしかすると!)


板が熱くなったのは、リアルタイムで参加しながら電車男に「関与」できる関係性にゾクゾクするほどの興奮を覚えたのでしょうし、想像以上の好展開に胸を躍らせたのだと思います。


一方で本が売れるのは、掲示板にあまり馴染みのない人が「こわいものみたさ」のような興味を持って買っているのではないかと思います。ネットに馴染んでいる人なら、わざわざ本を買うことはないでしょうし(今でもネットで読める)、今更「電車男」かよと思うでしょうしね。


「電車男」や「エルメス子」は実在するのかもしれませんが、そうだとしたらこれほど幸せなことはないでしょう。逆に幻想を振りまき夢を与えながらも、実は周到に用意されたビジネスであったならば、おそらくはその反動として幻滅が示す底の深さは、想像以上かもしれません。あれほどのものを意図的に創作可能かについても疑問は残りますが。


かくも「電車男」は語られるという点で多様性を帯びており、女性において対極な「負け犬」とともに、今年を象徴する出来事であったことだけは確かだと思いますが、いかがでしょうか。

2004年12月22日水曜日

立川のビラ配りの件3

「立川自衛隊テント村」という反戦団体が、防衛庁官舎にビラを配った件で住居侵入罪に問われた件について以前エントリーを書きましたが、東京地裁八王子支部で無罪判決が言い渡されたそうです。


細かな事情まで調べてはいませんから、普通に考えれば「ビラを配っただけで逮捕」はやり過ぎではないか、と思っていましたので、当然の帰結だとは思うものの、ネット上では公安の権力行使について肯定的な意見も少なくないことを知ったりしたものです。事件を報じたのが朝日新聞と赤旗だけでしたから尚更であります。


【参考サイト】






 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


と朝日新聞にありますが、表現の自由や政治的活動の巾に関する微妙な問題を孕んでいることは否定できず、「立川自衛隊監視テント村」という、少々過激な名前の市民活動家たちの行動が、ある種類の方々の反感を買ったことは、ちょうどイラクで拘束された三人の日本人の時にも巻き起こった感情と、どこか通じるものを感じます。


彼らが反対した自衛隊は実際サマワで何をしているのか全く分りません。給水活動に道路復旧や学校復旧だと政府は言いますが、イラク復興にどれだけ寄与しているのか全体での位置付けも分りません。勿論、イラク派遣に一体いくらの国費が費やされているのかも分りません。具体的な活動内容と、それに関わる収支は是非報告していただきたいものです。


なにしろ、知らないうちにこんなものを造っていたりしたんですから。


【関連エントリー】



朝日新聞 社説12月17日

■ビラ配り無罪――郵便受けの民主主義


 イラクへの自衛隊派遣に反対するビラを防衛庁官舎の郵便受けに配り、住居侵入の罪に問われた東京の市民団体の3人に対して、東京地裁八王子支部で無罪の判決が言い渡された。


 逮捕した警察、起訴した検察の全面的な敗北である。


 そもそも身柄を拘束したり、起訴したりする必要のない事案だった。2月末に逮捕され、5月まで75日間も勾留(こうりゅう)し、公判は8カ月に及んだ。無罪の結論を出すのが遅すぎたくらいだ。


 被告とされたのは、「立川自衛隊監視テント村」という反戦団体に属する男女3人。職業は中学校の給食調理員と介護会社員とアルバイトである。今年1月と2月、東京都立川市内にある防衛庁官舎の敷地に入り、宿舎8棟のドアの郵便受けにビラを配って逮捕された。


 「イラク派遣が始まって隊員や家族が緊張している時期に、玄関先にビラを放り込まれるのは住人として大変不快であり、家族も動揺した」。証人として出廷した自衛官ら3人は口々に訴えた。


 確かに、先遣隊、主力第1波、第2波と派遣が進み、各地の自衛隊にピリピリした空気が漂っていた時期だった。


 A4判のビラは「自衛官・ご家族の皆さんへ いっしょに考え、反対の声をあげよう」という呼びかけだった。


 判決は書かれた内容を「自衛隊員に対する誹謗(ひぼう)、中傷、脅迫などはなく、ひとつの政治的意見だ」と述べた。さらに「国論が二分していた状況で、ビラはさして過激でもなく、不安感を与えるとも考えがたい」と指摘した。


 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


 住居侵入に当たる行為ではあるが、配り方は強引ではなく、住民にかけた迷惑も少なかった。刑罰をもって報いるほどの悪事ではない。判決はそう結論づけた。明快な判断である。


 イラク開戦とそれに続く各国軍の現地派遣をめぐっては、世界のあちこちで大規模な抗議活動が繰り広げられた。欧州では、ベトナム反戦デモを上回るうねりとなった国も多かったが、日本では際立って低調だった。


 滞在中たまたま日本の反戦デモを見た外国人たちはその規模の小ささ、若者の少なさに驚いた。理由はいろいろあるだろうが、ビラ配り事件にあらわれた警察の過敏な取り締まりも一因だろう。


 自分の気に入らない意見にも耳を傾けてみる。それは民主主義を支える基本である。派遣を控えた自衛隊員にとっても、同僚や家族と全く違う意見を目にするのは無駄にはならないはずだ。くだらない意見だと思えば捨てればいい。


 そんなところにまで警察が踏み込むのは危険きわまりない。判決はそう語っている。