2007年6月29日金曜日

展覧会:「MONET モネ大回顧展」


新国立美術館で7月2日まで開催されている《MONET 大回顧展》に行ってきました。木曜日と金曜日は20時まで開館していますので、会社を定時に退社し18時から警備員に追われて会場を後にする20時過ぎまで、たっぷりとモネを鑑賞することができました。

モネは私が美術部に在籍していた高校時代の、お手本の一人であり、憧れの画家でありました。例えば《かささぎ》(1868-69)の雪景色など惚れ惚れするほどで、この画集のこの絵のページを開いて、自ら雪景色の画題に取り組んだこともあるほどです。あまり有名ではない《ボルディゲラ》シリーズの圧倒的な力強さも色の使い方を含めて随分と画集を食い入るように見たものです。

ですから、このブログでも何度かモネについては言及しています(→展覧会:パリ/マルモッタン美術館展ほか)。今回、モネを回顧するという展覧会で、改めて初期の作品から最晩年の作品まで通して観ることで、モネの多作さと執念のような絵画にかける思いに、ほとほと打たれてしまいました。


今でこそモネは広く人口に膾炙し、日本人のみならず世界の人から愛される画家となりました。しかし、モネの活動時代は彼の画風はかなり前衛的なものであったはずです。彼の画布に刻まれた絵筆の跡は、画家として当然有する確たるデッサン力に裏打ちされた挑戦的なまでの勢いと思い切りの良さ、「光の変化」を追い求める執念が渦巻いているかのようです。

モネのデッサン力と画力は、マネ風の《コーディベール婦人》(1968)年を観ると一目瞭然です。もうひとつ私が注目したのはチケットにもなっている《日傘の女》(1886)をもとに、画商デュラン=リュエルの注文で描かれた同題材の鉛筆デッサンです。この簡素な、そして早描きのようなタッチのデッサンからは、油絵以上に風の動きや空気の香り、輝く光が伝わってくるのです。何かのCFでこの油絵を動かしている作品がありましたが、そんなチャチな細工など全く不要なほどに絵が動いていることに素直に驚きました。

これほど確かな技量と情念の持ち主が、晩年に白内障と診断され、だんだんものが見えなくなっていくと分かったときの焦燥と苦悶は一体どれほどであったか。彼の絵は、1980年代の油の乗り切った時期のものや、睡蓮の連作も好きですが、私はやはり画布に狂ったように絵の具がのたくりうっている1920年代の一連の絵に、またしても慄然としてしまうのです。モネがどのような思いで絵筆を取り、画布に定着させていたのか。絵にまじまじと近づいて、あたかも自分が描くかのように、その筆致を追うにつけ眩暈のような感覚さえ覚えてしまうのです。

良く観ると、《日本風太鼓橋》(1918-24)などの絵のいくつかに、モネのサインがないことに気付きます。これらの絵は、誰のためでもなく、自らを鎮めるために自らのために描いたものなのでしょうか。色は暗いというのとも違う。ヴァーミリオンやクリムソンレーキのような赤を多用した画面。筆致は荒々しく、モネの内面がそのまま表出したかのようでさえあります。あたかも作曲家が交響曲など描くかたわら、ひたすらに弦楽四重奏やピアノ曲を作曲するかのようなバランスの取り方。この時期に、彼は非常に静的な睡蓮シリーズを延々と描いているのです。

とにかく作品数は多いですから、モネ好きにはたまらない展覧会であることだけは確かです。会期もあとわずかです。興味のある方は行って損はしないと思います。

2007年6月19日火曜日

[NML]ブルックナー 交響曲第3番 第1稿と第2稿を聴く

ブルックナー交響曲第3番を聴いた話を先日書いた。別に他のブログに触発されて、これを聴いたわけではないのだが、クラシック音楽のひとりごと のmozart1889さんも、たまたま最近この曲を聴かれたことをブログで知った次第。
(→http://www.doblog.com/weblog/myblog/41717)。

ノヴァーク版には第1稿から第3稿までの改訂稿があること、ブル3の副題が《ワーグナー》であることなどを、その後始めて知った。

ワーグナーの響きは第二楽章にいくつかの主題が表れる。第3稿では、かろうじて《トリスタン》的な和音を聴き取ることができるのみだったが、第1稿ではあからさまに《タンホイザー》のかの有名な断片が表れる。これには、かなりびっくりする。というのも、ブルックナーとワーグナーというのも、音楽的な特徴やベクトルは全く異なったものと意識していたので。

第1稿のその他の楽章も注意して聴いてみると、まだブルックナーらしくない響きもちらほら。第1稿から第3稿に向け、徐々にワーグナー的要素が減じ、逆にブルックナーの音楽に近くなっていくのは興味深い。

第1稿はティントナーで、第2稿はギーレンの演奏で聴いてみた。どれもNMLに納められている。ギーレンのブルックナーは如何にと思ったが、この演奏だけ聴けば結構立派であるしオケも結構鳴ってる。悪くはない。だからといって感動するかというと、これはまた別ではある。

2007年6月18日月曜日

ガッティでストラデッラのオラトリオ《スザンナ》を聴く(2)

ガッティの《スザンナ》を聴くの、第二回目です。

演奏者

Glossaのライナーには演奏者についての言及が全くありませんので、ネットで調べてみました。

演奏のアンサンブル・アウロラは1986年設立の団体。ガッティが音楽監督を務めています。彼らの使用楽器は以下のようになっています。

  • Enrico Gatti (Violin - L. Storioni, Cremona - 1789)
  • Claudia Combs (Violin - S. Klotz, Mittenwald - 1746)
  • Gaetano Nasillo (Cello - B. Norman, London - ca. 1710)
  • Giancarlo de Frenza (Double Bass - G. Sgarbi, Rome)
  • Loredana Gintoli (Double Harp - Thurau - 1990, aft Domenichino)
  • Anna Fontana (Harpsichord - R. Mattiazzo, Bologna - 1987)
  • Francesco Baroni (Organ - F. Zanin, Codroipo - 2000)

ガッティのヴァイオリンは、クレモナ黄金期最後の名人ロレンツォ・ストリオーニ(1715-1820)の手によるものなのですね。1789年製ですから、ストリオーニの油の乗り切った時期の楽器のようです。

対するC.Combs(左)は、イタリアではなくミッテンヴァルトの楽器なのですね。だからといって、私に楽器の音の違いや性格の違いが分かるってわけぢゃありません。とりあえず(役に立たない)薀蓄としては、おさえておかなくてはです。


このオラトリオは登場人物が5人しかいません。先ほども書いたように、スザンナ、ダニエル、二人の長老(審判官)、それにナレーターです。私はバロクーではないばかりか、歌劇系・歌手系にも全く疎いので、彼や彼女らの名前を聞いてもさっぱりです。有名なんだかレパートリーは何なのか分からないで聴くのも何なので、軽くググってみました。私の英語力は中学生レベルですから、いつもこんなことをしているワケではありません。

  • Emanuela Galli (Soprano - Susanna)
  • Barbara Zanichelli (Soprano - Daniel)
  • Roberto Balconi (Countertenor - Narrator)
  • Luca Dordolo (Tenor - Second Judge)
  • Matteo Bellotto (Bass - First Judge)


ソプラノのE.Galliはイタリア・バロックを中心としたレバートリーで活躍している歌手です。CD Universeによると(→こちら)、バッハ、Bassani、Durante、Jommelliなどを録音しています。

特にモーツァルトと同時代に活躍したイタリアのN.Jommeli(1714-1774)の作品はスペシャル・レコメンデッドされてます。ちょっと欲しいかも。あとMonteverdiの曲も録音していますね。



もう一人のソプラノはダニエル役のB.Zanichelliです。ダニエルがソプラノとは、聴いていて意表をつかれましたが、なかなか良いです。彼女の場合は、バロックばかりではなく、ワーグナーやシュトックハウゼンなどロマン派や現代音楽でも幅広く活躍しています。現代音楽やイタリアの重要な作曲家を中心に演奏しているdedalo ensembleの一員としても活躍しているようです。



カウンター・テナーのR.Balconi は公式サイトがあります。English Baroque SoloistsやらIl Giardino Armonicoなどの著名団体とも演奏しているようで、カウンター・テナー界では有名な方なのでしょう。Marcello、Buxtehude、Monteverdi、Vivaldiレコーディングも多いですね。今後もバロックを聴いていればお世話になる方なのかもしれません。

写真は公式サイトからの無断借用ですが、にしても、顎に手をおいて写真を撮られるアーティストって以外と多いです、なんでなのでしょう。


さて、邪悪な恋心を持った長老は二人います。審判官2であるテノールのL.Dordoloは、ググっても紹介が出てきません。CD UniverseではMonteverdiなどCD録音は多いようです。

最後は審判官1のバスM.Bellotto、こちらも紹介文は出てきませんが、naiveのヴィヴァルディ・エディションの中でアレッサンドリーニによるVespri per l'Assunzione di Maria(→CD Univers)に、この人の名前があります。Bellottoのバスを聴きたくてこの盤を買う事はないと思いますが、アレッサンドリーニなら聴いてみたいかなと。ジャケも綺麗だし。

ということで今日も、演奏者を調べるだけで疲れてしまいました。曲の感想は当分お預けです。

2007年6月15日金曜日

[NML]テンシュテットのブル3に驚愕

とんでもない演奏を聴いてしまった、それもNMLで! 

メジバロ(目白バ・ロック音楽祭)ももう行けないし、ガッティのオペラはチマチマ訳しながら聴いてはいるが、仕事も相変わらず忙しいし、ということで、天秤座+AB型のバランス感覚ゆえベタな方にベクトルが傾いた。そして、何気にブルックナーの3番を聴いてみようという気になったのである。

そもそもブル3はCDさえ持っていない。従って、あまり期待していなかったし、軽い気持ちで聴きはじめたのだ。

しかし、これは何と言う演奏であろうか。そして、これはブルックナーなのだろうか。いや、確かに、第一楽章冒頭の弦とホルンの静かな始まり方、盛り上がる部分でのオーケストレーションの騒々しさはブルックナーではある。しかし、だ。第二楽章の半音階など、一瞬トリスタンだし、マーラーを思わせるところもある。

テンシュテットが振るのは、バイエルン放送響。1976年11月4,5日のミュンヘンでのライヴ録音だ。実のところテンシュテットのブルックナーは少ない。この演奏も正規版としてファン待望の盤として発売された。

それにしてもだ。全く予想を覆す演奏である。ブル3がこんなにも面白い曲であったなんて! 何度感嘆符を付けても足りない。どんな演奏かは、私の拙い感情的な感想を読むより以下を参照すると良く分かる。

その凄まじさは、許氏がおそらく生で聴けばホールの天井が抜けるのでは、いやそれより聴いている人間の神経が持たないのではと驚愕するであろうことと書くように、第一楽章から全開なのである。この爆発するエネルギーと重さはどこから生ずるのか。フォルテッシモにおける、何処までも突き抜ける金管の咆哮、恐ろしいほどの低弦の分厚さ、打楽器の確かさ。弦の旋律の滑らかさと質量感。ああ、なんていいオケなんだ。

ちょっとでも聴いてしまうと、鷲掴みにされたまま終楽章まであっという間に連れて行かれる。第一楽章も凄いが、第三楽章のスケルツォから終楽章にかけては、もはや言葉も発せられない。ダダダ・ダッダッダッの付点的な、いかにも野暮なスケルツォにミニマル音楽のような弦の伴奏が絡まり、猛烈な演奏を繰り広げる。 終楽章冒頭はゲンダイ音楽さえ彷彿とさせるが、それも一瞬で、再び凄まじい熱い激情の奔流が渦巻く。ラストのティンパニのロールのクライマックスは鳥肌もの。

いやはや、再度問う。これはブルックナーなのか。これがブルックナーなのか。いや、それに意味はない。これもブルックナーの一つの姿なのかもしれない。細かいことは私には分からない。私は何度も聴いた。そして、こういう演奏を心底凄いと思う。こういう盤があるから、クラ聴きは止められない。

ただし、好みは分かれる、保障はしない。そして、こんな演奏をNMLで聴いていていいのか?(>いいって、買わなくて) こんな演奏に感動する私は、やっぱり、冷静なバロクーにはなれないか(苦笑)

2007年6月11日月曜日

ガッティでストラデッラのオラトリオ《スザンナ》を聴く

エンリコ・ガッティとアンサンブル・アウロラがGLOSSAレーベルに初録音した、ストラデッラの《スザンナ》を聴いてみました。ガッティの演奏を聴きたくて買った盤でしたが、聴いてみれば曲そのものも、ストラデッラも興味深く、一度聴いただけでCD棚に納めるのがもったいないと思える作品です。ということで、防備録的に調べたり感じたりしたことを書いておきます。(モトネタはネットとCDブックレットという安易さです)

本CDと、オラトリオの解説、それにストラデッラの生涯について、クラシック通販ショップ「アリアCD」に詳しいので、興味のある方は、まずそちらをご覧になると良いと思います。

(→http://www.aria-cd.com/oldhp/yomimono/vol25.htm)





  • Emanuela Galli (Soprano - Susanna)
  • Barbara Zanichelli (Soprano - Daniel)
  • Roberto Balconi (Countertenor - Narrator)
  • Luca Dordolo (Tenor - Second Judge)
  • Matteo Bellotto (Bass - First Judge)
  • Enrico Gatti (Violin - L. Storioni, Cremona - 1789)
  • Claudia Combs (Violin - S. Klotz, Mittenwald - 1746)
  • Gaetano Nasillo (Cello - B. Norman, London - ca. 1710)
  • Giancarlo de Frenza (Double Bass - G. Sgarbi, Rome)
  • Loredana Gintoli (Double Harp - Thurau - 1990, aft Domenichino)
  • Anna Fontana (Harpsichord - R. Mattiazzo, Bologna - 1987)
  • Francesco Baroni (Organ - F. Zanin, Codroipo - 2000)
  • Glossa GCD921202M

ストラデッラについて


ストラデッラ(1644-1682)は17世紀イタリアで活躍した作曲家ですが、その浮気性のため殺し屋につけ狙われ、遂には暗殺者の刃で命を落とすという放蕩人生を送ったことで有名です。そこから「ストラデッラ伝説」が生まれ、彼の生涯そのものがオペラや小説、詩などの題材にされたりしています。

その生涯はかなり脚色されているようで、実際のところは不明な点も多いらしいのです。音楽よりも生涯が有名とは言え、彼は「1670年代のイタリアで最も優れた音楽家」でありましたし、その功績はコンチェルト・グロッソ(正式にはコレッリのOp.6が当様式の最初の作品とされている)や、レチタティーヴォに弦の伴奏を付けるなど、音楽的イノベーションにも加わってたそうです。(→日Wikipedia

《スザンナ》について


《La Susanna》はオラトリオです。従って聖書を題材としているのですが、ストーリーはかなり性愛的なものに偏った内容になっています。
《スザンナ》は旧約聖書《ダニエル記》補遺的に記載された逸話。スザンナといえば純潔の象徴。物語を簡単にまとめると以下のようなもの。

美しいスザンナが沐浴しているときに、二人の長老二人が覗き見をし関係を迫る。スザンナは当然に拒絶。逆恨みした長老たちは、スザンナを逆に姦通罪で訴える。牢獄の中でスザンナは神に助けを求める。すると預言者ダニエルが現れ、二人の長老を尋問し矛盾を暴く。スザンナの無実が実証され、二人の長老は死刑とる。


まあ、自分の生涯をさておいて、いかにもストラデッラ的なテーマです。

バロックの世にあって、一般大衆には官能的なものと宗教的なものが一体となって表現されることに規制はなかったようです。このCDのカバーに使われているのは、16世紀から17世紀に活躍したカラヴァッジオ派の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)による《水浴のスザンナと老人たち(Susanna ei Vecchioni)》。彼女18歳のときの最初の作品です。にしても好色な長老たちです・・・。(→日Wikipedia)




スザンナは画家たちにとっても興味深い甘美な対象であるのか、かのレンブラントも何作か描いているんですよね。例えば下。流石にレンブラントだけあって格調高いですが、結局はエロヲヤジのレイプ未遂というわけで(→解説はこちら Salvastyle.com)。宗教を題材として、それを隠れ蓑に女性の裸を描き眺めていたというワケですな。



こちらはイタリアのバロック時代の画家Guercino(1591-1666)によって書かれたスザンナ。こちらの方が好色じみたエロヲヤジの姿を的確に捉えていますね。



下のスザンナの方が有名でしょうか。ティッツアーノと並ぶルネサンスの代表的画家 ティントレット(1518-1594)のスザンナ。スザンナがエロティックです。禿ヲヤジの視線がいかにもイヤらしいですね。高校時代、こんな絵を観てドキドキしたことを思い出します。



スザンナが誘惑的なポーズであっては、本オラトリオは成立しません。やっぱりイタリア・バロックの画家であるGuido Reni(1575-1642)のスザンナが一番でしょうか。驚きによって目を見開いたスザンナ、いかにも悪そうな長老たち・・・。しかし、こんな老人でも性的欲求が・・・強いのね、イタリア人って。騒ぐなったって、大声出しますよ、フツー。



描かれた
エロヲヤジスザンナの事を調べていたら、なかなか先へ進めません(藁)。

《スザンナ》のリブレットはモデネーゼの詩人でありフランチェスコ会のセクレタリーでもあったGiardiniによって書かれており、大きくは二つのパートに分かれています。前半がスザンナ沐浴の場面、後半が牢獄から裁判の場面です。

ガッティが作曲家ストラデッラに目をつけた事は興味深い点です。音楽を聴いてみると分かりますが、作曲家の性格は淫蕩ではあっても、音楽的には聴くべき点が多く、そして極めて美しいのです。ストーリーを知らずに聴いていると、妙なるアリアの連続に思わず聴き惚れてしまうのですから。

配役はスザンナと預言者ダニエルがソプラノを、ナレーターがコントラート、そして二人の長老(=エロヲヤジ=審判官にして悪党)をテノールとバスが担当し、これにコーラスが加わります。当然のこと、ガッティは指揮とバイオリンを担当です。

ということで、音楽の話題は日を改めることとしましょう・・・。いつになるかは分かりませんが。

展覧会:「アートで候 会田誠・山口晃展」


上野の森美術館で開催中の「アートで候 会田誠・山口晃展」を観てきました。名前を聞いても分からないかもしれませんが、どちらの作品も、観れば「ああ、あの」と思える作家です。お馴染みの弐代目・青い日記帳はろるど・わーどに展覧会レビュがありますので、興味ある方はそちらからどうぞ。

私はどちらかというと、常識的な人間ですから、山口晃氏のファンでありまして、彼の作品を目当てに行ったのですが、行ってみれば果たして、会田氏の毒気にすっかりやられてしまいました。

会田氏の「毒」は結構危険です。良識的な見地からすれば、「エロ・グロ」とか「猟奇的」であり、とても「良い子」にはお薦めできないシロモノです。しかし、かつては「芸術」と呼ばれたこの領域は、もともと「毒」を含んだものであり、時代への擦り寄りと反発という相反する中から、新たな表現を生み出していた筈ではあります。

会田氏の作品からは、「ふざけた輩だ」という思いと、それでも作家としての自我に非常に従順で真摯な姿を感じます。彼の残虐にして美しい作品は、それを観る人の眉間に皺を寄せさせつつも、鑑賞者の中の何かを確認させ、そして崩壊さる力を持っています。まさに時代と自分が透けて見え、「この世から背広を着たサラリーマンを抹殺したい」という凶暴なる欲求さえ隠そうとしない、ナイーブな会田氏の目線が、観る者の奥深いところを突き刺すのです。会田氏の作品を「好き」とは言えないまでも理解を示したならば、自らがいびつな現代に生きる個であることに抗えないことの表明であり、後ろめたい快感と、その反面として自責と、そして開き直りさえ覚えるかもしれません。かように良識人は会田作品を前に振幅を大きくし、作品を認めはしても、条件付で全面肯定を留保し、そして分かる人にだけ語りかけゆくのではないかと思うのです。ですから、会田氏を熱く語る人の言葉は、かなりベタにして捩れているのではないかと予想します。

一方、山口氏の作品には、そういった危険な毒はありません。なんたって、天下の都営地下鉄や三越が採用したがる画家なんですから、良い子も大人もオバチャマも、みんな山口氏の絵が大好きです。大画面の細密画の前に立ち止まり、作品の細部を指差し語り合い、微笑みます。そして、これまた「チマチマしたものが好き!」「トーマスを探したい!」という、抑え切れない衝動を解放させます。日本画的鳥瞰視線から、東京という都市と現代の日本と歴史を再構築させ、その違和と同質に驚きと快感を感じます。山口氏の徹底したディテールは、絵を観る楽しみ、再発見する喜び、眼の享楽を素直に与えてくれます。

��階の展示場だけでなく、2階の「山愚痴屋澱エンナーレ 2007」も圧倒的に面白くて、例えば標識シリーズなど笑いをこらえるのが困難な程だったりします。今回の展覧会の為に描いた山口作品の中で最大規模の「渡海菩薩」もありますので、見ごたえ充分な展覧会です。

それにしても、日本の美術界も変わったものです。会田氏は1965年、山口氏は1969年の生まれ、マンガやアニメで育った世代です。私は、極めて絵の上手い少年マンガ家や少女マンガ家と、イラストやアートの違いというのは一体どこにあるのだろうと、マンガを読みふけっていた頃は随分と悩んだ*1)ものです。例えば少女マンガならば70~80年代の「りぼん」で活躍した内田善美。美少女を描かせたらナンバーワンの江口寿史。あるいは、圧倒的な絵でマンガ表現の常識さえ変えた大友克洋。水墨画を思わせる驚くべき技巧の鄭問。これ程の筆致*2)がマンガでしかないこと、なぜ、現代を切り取る先鋭的なアートにならないのかと。

そんな疑問を、やすやすと、この二人は越えています。まあ、しりあがり寿だってアート*3)になる世の中ですから、美少女を描くのが好きな会田氏や、チマチマした都市風俗を書くのが好きな山口氏が受容されるのも時代なのかなと思ったりします。

あと、山口氏を好きな人と若冲を好きな人って、かぶるような気がしていますが、takさん、どうなんでしょう?




  1. いちおう、高校時代は美術部でしたし、そのころは、シャルダン、フェルメール、レンブラント、ターナー、モネを敬愛していましたから。おっと、六本木に行かねば!
  2. これらのマンガ家の絵を思い浮かべ、好きと思える人ならば、会田、山口氏の絵は好きになるでしょうね。話はそれますが、単純な線描写の天才を上げれば、倉田江美と高野文子になりましょうか。実は、いしいひさいち も絵的に天才の一人だと思っています。
  3. かつての「ヘタウマ」の系譜ともちょっと違うと思う・・・

2007年6月10日日曜日

ガッティをトッパンホールで聴く

目白バ・ロック音楽祭の目玉にひとつ、トッパンホールで開催された、エンリコ・ガッティのヴァイオリン・コンチェルト編を聴いてきました。

リクレアツィオン・ダルカディアは日本人による、イタリア・バロック・アンサンブルとしてヨーロッパ各地で活動している団体らしく(公式ブログ→http://ricrearca.exblog.jp/)、とても楽しみにしていた演奏会でした。

    エンリコ・ガッティ&リクレアツィオン・ダルカディア
    イタリア・ヴァイオリンの芸術 2 「コンチェルト編」
  1. ガルッピ:4声のコンチェルト第2番 ト長調
  2. ヴィヴァルディ:ヴァイオリン・コンチェルト作品3-9 ニ長調
  3. タルティーニ:コンチェルト D.120 変ロ長調
  4. コレッリ:4声のフーガ Anh.15
  5. コレッリ:コンチェルト・グロッソ作品6-9 ヘ長調
  6. ボンポルティ:ヴァイオリン独奏付4声のコンチェルト ヘ長調 作品11の5
  7. ヴァイヴァルディ:ヴァイオリン・コンチェルト作品3-3 ト長調
  • 2007年6月9日(日)14:00 開演(13:30 開場) トッパンホール
  • 〔独奏〕エンリコ・ガッティ(バロックヴァイオリン)
  • 〔器楽〕アンサンブル・リクレアツィオン・ダルカディア
  • 松永綾子(ヴァイオリン) 渡邊さとみ(ヴァイオリン) 
  • 山口幸恵(ヴィオラ)
  • 懸田貴嗣(チェロ) 西山信二(ヴィオローネ)
  • 渡邊 孝(チェンバロ&オルガン)

そんなガッティの演奏会、前回はベタな褒め方をしてしまいましたので、今回は冷静になって書きましょう。

立教大学において噂に違わない美音を聴かせてくれたガッティでしたが、今日はコンチェルトということで、ガッティ色が若干殺がれたように最初は感じられました。アンサンブルをつとめるリクレアツィオン・ダルカディアも実力の団体なのですが、それでもバイオリンの音色の差はいかんともしがたく*1)。ガッティの突き抜けた青空のような明るさと輝きの前では、少しくすんだ曇り空という程の違いがある。時々奏でられるガッティのソロは、相も変らぬ美音でありましたが、彼の演奏を聴くという意味においては立教大学でのコンサートに軍配が上がったといえましょうか。

とは言うものの、アンサンブルが最初は少し「重い」と感じたのは、おそらくは私の聴衆としての未熟さと偏見でしょう。今日のコンサートを楽しめなかったかといえば、そんなことは全くなく、ガルッピに始まりヴィヴァルディ、タルティーニ、コレッリ、ボンポルティと、どの曲も確かに「どこまでも典雅なバロックの世界」以外の何ものでもないものの、それぞれが、それぞれに美しく、音楽に何の気負いもなく向き合え、そして身を委ねられる快感を充分に味わえるものでした。

こうしてバロックの作曲家を聴き比べてみますと、ヴィヴァルディの音楽は他の作曲家とはやはり別格であると実感。ヘタな例えを凝りもせずに敢えてするならば*2)、良く冷えたスプマンテの粒の細かい泡立ちとでも言いましょうか。心がウキウキとし、そして少し急かされるかのような期待を込めたざわめきさえ覚えるのです。こんなキモチにさせる作曲家は、他には余りいませんね。そしてガッティは、そんな音楽を、あまりわざとらしくもなく、ごくサラリと、そして鮮やかなパレットで描ききります。

良く聴いてみれば、リクレアツィオン・ダルカディアは底も厚く、ざっくりとした中にも落ち着きとキレの良さを持っています、渡邊氏の通奏低音も落ち着いた響きで、しっかりとガッティのバイオリンを支えてはいましたか。チェロの懸田氏の演奏も随所で印象的で好感が持てました。

それにしてもガッティです。やはりガッティです。例えばヴィヴァルディの作品3-9(RV 230)の第二楽章Larghettoの歌い方!ヘタな演奏で聴いたら結構つまんないと思えるような曲でも、ガッティにかかると、あたかもヴィヴァルディ一級のオペラ・アリアを思わせます。この人は、テクニカルなAllegroな楽章よりも、こういう楽章の方が圧倒的に聴かせますね。いえテクニックもありますが、メカニックで凄いという気にはなりません。

タルティーニでは編成が少ない分、ガッティ節を堪能し、アンコールのヴィヴァルディでは、もはや声も出ず、感涙ものでありました*3)

  1. いや、考えてみればコンチェルトというとでありますし、リクレアツィオン・ダルカディアの演奏を聴くのは今回が初めてですから、こういう印象的な感想は的外れな気もします。今度機会があれば、ゆっくり、この団体の演奏も聴いてみたいと思っています。
  2. #Credoのkimataさん、スンマヘン、またやってしまいました・・・(^^;;; TBさせてもらいます。
  3. ・・・て、またベタな感想になってしまった・・・か?

2007年6月4日月曜日

モーフィングによる女性名画の変遷!


何気にテクノラティで話題の動画 Women In Art(YouTube)というのを見たが凄すぎ。バッハの無伴奏チェロ組曲第1番のSarabandeに乗って、変わる変わる!面白くて二度も見てしまったワイ。


目白でガッティを聴く

目白バ・ロック音楽祭の目玉のひとつ、立教大学第一食堂で開催された、エンリコ・ガッティのヴァイオリン・リサイタルを聴いてきました。

馴染みのない作曲家ばかりですから結構迷った演奏会でしたが、結果としてはこれ以上はない、という位の至福のひと時で、心底良かったと思える演奏会でした。

    エンリコ・ガッティ&懸田貴嗣&渡邊 孝
    17-18世紀イタリア・ヴァイオリンの芸術Ⅰ「ソナタ編」
  1. チーマ(c.1570- 1630):ヴァイオリンとヴィオローネのための二声のソナタ
  2. フォンターナ (? 1589- ? 1630):ソナタ第3番
  3. ウッチェリーニ (c. 1603- 1680):ソナタ第1番「ラ・ヴィットーリア・トリオンファンテ」
  4. ジョヴァンニ・デ・マックエ (ca. 1550- 1614):コンソナンツェ・ストラヴァガンティ、2つのガイヤルダ、
  5. ストラヴァガンツェ第2(チェンバロ独奏:渡邊孝)
  6. スビッサティ (1606-1677):ソナタ第9番 - 第12番
  7. パンドルフィ・メアッリ (fl. 1660- 69):ソナタ第2番「ラ・チェスタ」
  8. ボンポルティ (1672- 1749):インヴェンツィオーネ 作品10の4
  9. ジェミニアーニ (1687- 1762):ソナタ 作品4の5
  10. ジェミニアーニ:チェロ・ソナタ作品5の5(チェロ独奏:懸田貴嗣)
  11. ヴェラチーニ (1690- 1768):ソナタ・アッカデミカ 作品2の6

  • 2007年6月3日(日)15:00 開演(14:30 開場) 立教大学第一食堂
  • ヴァイオリン:エンリコ・ガッティ 
  • チェロ:懸田貴嗣 チェンバロ&オルガン:渡邊孝

ガッティは知る人ぞ知る、バロック・ヴァイオリン界の貴人とも称され、その優雅な演奏手法に惚れ込んでいるファンも少なくないようです。ガッティについては、古楽ブログとして有名なSEEDS ON WHITESNOWに詳細な記述がありますので、知らない方はこちらをご覧になると良いです。(→http://seeds.whitesnow.jp/blog/archives/2007/06/post_158.html)

それによりますと、ガッティの魅力を以下のように説明しています。

エンリコ・ガッティの音楽に感じる魅力は、もちろん、バロック・ヴァイオリンというには、あまりにも芳醇すぎる豊かな響きにあるわけですが、その背後には、彼の生まれたイタリアが持つ文化の蓄積を併せて感じます

聴きおえてみれば全く同感で、ガッティの「芳醇」を深く深く感じた2時間でした。

ガッティの演奏を聴いていると、イタリア・バロックは全てが歌なのではないか、とさえ思えてきます。AndanteであってもAllegroであっても、そこに漂うのは空気であり、谷を吹く風であり、渓流や泉の流れであり、太陽の輝きを感じます。そして、人の喜びや営みが、聴こえてきます。

演奏は気品と上品さが全く嫌味なしに表現され、卓越した技巧も単なるテクニックに陥らない。響きは極めて自然で刺激とはならず、従って、やたらと精神を興奮させもしない。自然に、すうっと体に流れ込んでくる素直さ。

演奏姿が、すでに呼吸と一体になっている。強く引き降ろすようなボウイングに見えても、奏でられる音は極めて繊細、フォルテにおいても決して荒らぶらない。体から音が出ている。だからといって弱々しく女性的というのでは全くない。音楽が示しているものは、あくまでも男性的な詩。色気、エロスも男性が醸し出す馥郁とした香り。バイオリンという楽器が放つアクの強さやどぎついフェロモンは全く感じない。それがバロック・バイオリンの特色なのか、ガッティの音楽なのか。

極端なアーティキュレーションやアゴーギクは、そのひと時は面白いかもしれないが、そのうち飽いてくることも否定できない。ガッティの音楽にコケ脅しは一切なく、それでいて汲めども尽きぬ泉のよう。こんこんと輝くばかりの音楽が至福の喜びとともにあふれ出し、聴き飽きるということが全くない。どれも、これも、初めて聴く曲ばかりだというのに、この面白さよ。何度も鳥肌が立つ。

音の響きは、それが奏でられる空間や雰囲気に左右されるとしたならば、今日の立教大学の食堂で行われた演奏は、音楽をより一層引き立てることに奏効したと言えましょう。チュ-ダ様式の古風な空間と、開け放された入口から、まだ乾いた6月の空気が流れてくる。密閉されていないことによる適度の解放感、落ち着いた光、リラックスした休日の午後。

一体に、もしも西洋音楽というものがドイツではなく、イタリアを中心にその後発展していたとしたならば、音楽史や世界史は、もしかしたら変わっていたかもしれない、とさえ思える演奏会でありました。SEEDS ON WHITESNOWに書かれているように、まさに、イタリアの音楽が本来持っていた豊かさ、それがそのまま封じ込められているのではないか、という甘美な幻想を思う存分に堪能。感謝、ブラボー!!。(>って、こんなにベタに褒めていていいのか?)

上)開演まで暇だったんで、軽くスケッチ。下描きなし、かなりテキトー、植物ばっかなんでペン画では難しい・・・。しかし、何て素敵なキャンバスなんでしょう! 池袋の混沌を抜け出すと、すぐ近くにこんな空間が広がっているなんて!

2007年6月3日日曜日

立教大学

目白バ・ロック音楽祭開催中

東京バッハ・モーツァルト・オーケストラのモーツァルト

目白バ・ロック音楽祭が昨日から始まりました。聖母病院チャペルのチェンバロ・リサイタル*1)にも食指が動いたのですが、やっぱりオケが聴きたいなあという気になって、東京芸術劇場で東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ(TBMO)の演奏会に行ってきました。

    東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ演奏会vol.2 What's MOZART
  1. 「魔笛」序曲 K.620
  2. クラリネット協奏曲イ長調 K.622
  3. 交響曲第39番変ホ長調 K.543
  • 2007年6月2日(土)19:15 東京芸術劇場
  • 指揮:有田正広 東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ(ピリオド楽器使用)
  • バセット・クラリネット:エレック・ホープリッチ

TBMOは、1989年に結成された日本初のピリオド楽器によるオーケストラ。10年間の休止期間を経て昨年6月、モーツァルトのフルートと管弦楽のための作品を演奏するために再結成され、その演奏会が絶賛されたことは、知る人なら知っているでしょう*2)

さて、そんな期待に満ちたオケによるオール・モーツァルト・プログラムの最初は「魔笛」序曲。冒頭の和音からして、ビンと張り詰めた響き。これを聴いただけで、オケのアンサンブル精度と技巧を感じ取ることができました。

演奏に余計な贅肉はなく、かといって厳格すぎるわけではなく、エキセントリックとか過度のシャープさとも離れたところにある。それでいて研ぎ澄まされた技巧は冴えており、響きはクリアで透明、あたかも吟醸酒のような趣。

この演奏スタイルは有田氏の音楽に対する真摯なアプローチの賜物なのでしょうか、聞いていて素直に心地よいです。それが逆に欠点といいましょうか、モーツァルトの心の底から沸き起こるような愉悦を感じることは少ない。

クラリネット協奏曲を演奏するホープリッチは、ブリュッヘン率いる18世紀オーケストラの首席奏者にして知る人ぞ知るクラリネット・ヲタク*3)。今日も彼自らが復元したらしいバセット・クラリネットを用いての演奏。芸術劇場の広い空間ではソロ・クラリネットの音色は2階席まで朗々と響き渡るといったものではない。特にオケとの合奏になる技巧的な中音域のパッセージは聴き取りづらい。しかし、それであっても、彼のまろやかにして独特の音色は極めて印象的。「クラリネット臭さ」がない、と書いても分からないか。非常にキモチの良くなる演奏で、これはブラボー。

最後の交響曲第39番は、再び「魔笛」と同じような印象。オケはテンポラリーな団体だとはいえ、ウマいです。しかし、私の好きなウキウキするようなメヌエット、そして終楽章のアレグレットは、なかなかドライブしてこず、有田氏はしっかりと着実に演奏します。誠実ではありながらも、はやりモーツァルトの何かが失われてはいまいかと、演奏終了後に考えてしまいました*4)

  1. こちらを読むと(→#Credo http://blog.livedoor.jp/credo5026/archives/50843939.html)、やっぱりチェンバロにしておけば良かったか、なんて・・・思ったりしています。
  2. 私は知りませんでした(^^;
  3. 私は知りませんでした(^^;;
  4. 正直に書きますと、私は今日はとても、とても疲れておりました。睡眠不足と精神的な疲労、加えて肉体的な疲労と軽い内蔵系の病から回復したばかりであり、満足に演奏を満喫するという体調になかったことは告白しておきます。モーツァルト音楽に何を求めるかは、ごく個人的な偏見に所以した要求でしかないと思っています。

2007年5月31日木曜日

では、ギーレンのマーラーはいかに


ギトギトしていないベートーベンを好感に思い、ついでなのでNMLでマラ6を聴いてみる。




録音は1999年なのでかなり新しい演奏。ギーレンの路線は変わらず、硬質にして整然。クリアにして透明。美しくはあるが耽美には傾かない。激情はあっても、あからさまで無制御な感情の放出は皆無。すなわち、音楽的な峻厳さや落差は十分に表現されるが、そこから情念のようなもの、あるいは破滅的な暗さまでは感じない。それ故というのだろうか、計算された演奏は音楽的な美しさと構成美を際立たせる。


では、これがマーラーなのかと問う。マーラー好きには、マーラーに求めるカタルシスは得られないかもしれない。このマーラーを通してギーレンは何をしたかったのか。たった二つの演奏を、ラジオ並みの音質*1)で聴いただけで、これ以上語る無謀はできない。ただ、このテの指揮者は、録音と実演の印象が全然異なるような予感はある。もしもホールで聴いたならば、その音響世界にブチのめされる可能性は否定できないなと。


クラ界定番の下記サイトに詳細レビュあり。




  1. NMLが「ラジオ並の音質」というわけではない、念のため・・・。会社PCのヘッドフォンが酷いだけのことである。

2007年5月30日水曜日

疲れたときのギーレンのベートーベン


��MLは私の場合、会社のPCでも聴取可能です。毎日が仕事にただ流されていく中、NMLの薦めるままに、ギーレンのベト3を聴く。聴いて、思わず愕然として、心が洗われる。そして、やはり何か書かなくちゃという気にさせる、そんな演奏。





これって、本当にベートーベンなんだろか。第一楽章の軽快さ、優雅さ。一瞬シューベルトかと思う程の天国的リピート。


私はコアなクラシックファンではない。だからギーレンが、どちらかというと熱血系とは対照的な指揮者であることくらいしか知らない。従って食指の動く指揮者とはならず、彼の音盤が私のCD棚に存在するかさえ確認したことはない。


しかし、これは良い。というか、コテコテ演奏を受け付けない位に疲弊した体には、滋養のように染み込む。カラダに悪い脂肪分が取り除かれたサラサラの液体のよう。しかもそれでいて、ベートーベンなのである*1)。ドライな印象であってもベートーベン的なるものは細胞の核のように残り、そしてサプリメントのようにどこかを鼓舞してくれる。



  1. コレステロール1/2のマヨネーズとか、カロリーを抑えたギガ・マックとか(←ないって、そんなもの)

2007年5月19日土曜日

ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則


「Good to Great」というのが原題。

ドラッカーの書もしかりですが、優れたビジネス書は働くものに多くの知見や啓蒙ばかりでなく、人生に対する希望や可能性さえ与えてくれる指南書であることが多い。そこには目新しいことは書かれていないかもしれないが、現状に閉塞感を感じているならば、何かしら目を開かせてくれる言葉に出会うものです。

そんな中にあって前書の「ビジョナリー・カンパニー」(→レビュ)は目からウロコ級の極めて優れた書でしたが、本書も同様であり、ベストセラーの名の下の二番煎じやドジョウなどでありません。

ここでは本書の要旨やポイントについて言及するつもりはありません。手軽に知りたければamazonのレビュを参照すればよく、また章ごとに要約が端的にまとめられています。

私が一番感心したのは、本書のスタンスです。筆者のジェームズ・C・コリンズと今回の調査研究に携わった研究者達の膨大な尽力には畏敬の念さえ覚えます。そして、それこそが本書の大きな魅力だと思います。

前書でもそうでしたが、「自社ビルを見つける」落とし穴を避けるという問いの立て方は重要です。ビジョナリー・カンパニーに共通する特徴を見つけるのではなく、これらの会社が本質的に違う点は何か。ほかのグループの会社と比べて際立っている点は何かという問いを立てろと主張します。今回はビジョナリー・カンパニーの替わりに、飛躍した企業に対し同様の問いを立てて調査研究が進みます。

前書の読者からの素朴な疑問に立ち向かうため、前書の前提を一旦捨てた所からスタート、5年間に渡る徹底的な調査と討議。ともすると陥りがちなはじめにあった理論を調査によって試すか証明する方法は取らず、データと事実にのみ準拠する姿勢、その結果から導かれた結論の重い説得力。プロセスに妥協は無く、驚くべき真剣さと熱意に打たれます。

そして、これらの活動の根本にあるのは、あふれるばかりの好奇心。

こういう質問をよく受ける。「そこまで大がかりな調査研究を進めた動機は何なのか。」的を射た質問だ。この問いの答えは一言でまとめられる。好奇心である。答えを知らない疑問をとりあげて、答えを追及していくことほど面白いことはない。(P.8)

そうなのです。だから本書は読み始めたら止まらない程に面白いのです。ビジネス書でありながらワクワクし、ドキドキし、自分の自身や所属する組織に思い巡らし、そして何かに気づきます*1)

一方で、しかし、とも考えます。

GEの偉大な経営者であったウェルチもそうですが(→たとえばこれ)、なぜ発展すること、勝つこと、Greatになることが重要なのか。拡大することを宿命付けられた資本主義の幻影を追っているだけなのか。否と筆者は応えます。

「なぜ偉大さを追求するのか」という問いはほとんど意味を持たない。(中略)

ほんとうに問題なのは「なぜ偉大さを追及するのか」ではない。「どの仕事なら、偉大さを追及せずにはいられなくなるか」だ。

つまりそこそこの成功で十分ならば仕事の選択を間違えているのだと断言します。

このような疑いのない明るさをベースとしたポジティブさに抵抗を覚える人もいるでしょう。理解はしても斜に構えたくなる人もいるかもしれません。それでも本書の語ることを無視はできません。どこかで成功するとか何かを達成するということに対し、そして少しでも人生の意義を見出そうとするする人であれば、本書から何かを得られるはずだろうと*2)

  1. 気づくことの多くは、ゲンナリさせられるものばかりなのだが・・・_| ̄|○
  2. 逆に言うと、そういうことに全く意義を見出さない人には役に立たない、というか、そういうことに興味のない人は・・・そもそも、こういう本を決して読まないだろう。

2007年5月7日月曜日

連休の終わりにシェーファー

今年もGWは終了。有楽町方面の熱狂は今年も全くスルー。来年こそ熱狂デビューできることを、ひそかに期待しながら、さて明日から仕事である。別に今更憂鬱にもならないが、初日からトップ・ギアで月末まで走らないと間に合わないだろうことは予想され、やれやれではある。

ということで、クリスティーネ・シェーファーを数枚聴いている。まずはNMLで、バッハやハイドン、メンデルスゾーンを。

バッハはコーヒー・カンタータも良いが、結婚カンタータの方がレチタティーヴォを含めシェファーの歌声を堪能できる。

続いてHMVでゲットしておいたシューベルトとシェーンベルク。


        
  • 457 630-2 シェーンベルク:月に憑かれたピエロ/ブーレーズ
  • C450971A シューベルト:歌曲集

シェーファーは、クラ系ブログでもチラホラ話題に上る期待の歌手(例えばここ→Takuya in Tokyo)。薦められるままにNMLでシューベルトの「冬の旅」を聴いて以来、その歌声が気になって仕方がないのである。古楽やロマン派も良いが、やはり予想に違わず現代曲も素晴らしい。彼女の硬質にしながらリリカルな歌声は確かに現代的であるように思える。ただし、感想を書けるほどには至っていないので、これにて。

これもTakuyaさんのブログで知ったのだけど(→http://blog.livedoor.jp/takuya1975/archives/50324383.html)、古楽と現代曲しか聴かないクラシック・ファン(「中抜き」)というのが存在するらしい。私の知る知人には居ないが、著名人では石田衣良氏などがその典型なのだろう。彼の小説は読んだことがないので分からないが、外見から判断する限り、テンシュテットのマーラーとか聴いて泣いたりはしないのだろうな・・・と。