過去ログはlolipopサーバーからbloggerに移動、自分の防備録を兼ねてネット上に残しておくこととします。(ほとんど手作業による引っ越しとなりました。すべてのログを移動できたわけではありません。)
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残せるものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2010年3月31日水曜日
ブログ移行に伴い当面休止
過去ログはlolipopサーバーからbloggerに移動、自分の防備録を兼ねてネット上に残しておくこととします。(ほとんど手作業による引っ越しとなりました。すべてのログを移動できたわけではありません。)
2010年3月27日土曜日
香山リカ:なぜ日本人は劣化したのか
「劣化」とひとくくりにしても、香山氏も指摘するように、学力、体力、(生きる)気力、マナー、「日本人らしさ」など、多岐にわたる。筆者は、それをバラバラに捕らえるのでは、間違った対処療法的な解決策しか出てこない、これらの病根は同じなのだからそれを認めて処方を論じよと解いている。その前提意見に同意することはできない。なぜなら、それはかえって問題を曖昧模糊なものとし、思考停止に陥る危険性を感じるからだ。全てに効く万能薬などない。
日本人が(この言葉に問題はあろうが)エリートから下流まで、程度の差こそあれ「劣化」していることは、何も香山氏に指摘されなくても日々目にするところである。政治の劣化は目を覆うばかり、だから「政治が悪い」では解決にも何もならない。
そもそも、本書のような内容でも「本」として発売されうるということ。そのこと自体が出版界と知的階層の劣化を象徴し、劣化を助長している。そのような本であることを分かっていて読む小生も「劣化」している。賢明な著者は、そのことに気づいていながら、あえて、このような愚書を出さざるを得ないほどに、書き手は焦燥感を覚えているのだと解釈しておきたい。
2010年3月13日土曜日
FREE
「フリー」すなわち「タダ」のサービスは昔からある。しかし誰かがコストを負担していた。そのコストが限りなく、無視できるくらいにゼロに近づいた時、あるいはそのコストを全く気荷しなくて良くなったとき、大きなブレイクが生じる。それは「何で稼ぐか」というビジネスモデルを破壊してしまうこともあるからだ。
この流れは止まらない。音楽や出版業界がよく遡上に上る。旧来型のモデルにしがみつく業界は早晩に市場から撤退してゆくか、ニッチな産業となっていくとの指摘も、ある意味で正しいのだろう。
結局は、「何で稼ぐのか」というビジネスモデルの本質を問う作業であり、何をフリーにすればよいのか、ネットをどう使えばよいのかという話ではない。何(コンテンツ)をどうやって売るのか(=稼ぐのか)を明確にしなければ、いくら評判を得てもそこから利益は得られない。
我々は簡単にコピーできるものに、お金を払う気持ちが沸かなくなってきている。いくら知的所有権云々と言われてもだ。では、「顧客は何になら御金を払う気になるのか」あるいは「どうやったら御金を払わせることができるのか」を考えろということだ。アトムだろうがビットだろうが、結局は変わらない。
音楽や出版会、あるいはパソコンのソフト販売は企画から製作、流通、販売というモデルでは稼げなくなっただけのことだ。ブツに対する需要はなくならないが、ブツの販売経路では稼げない。中抜けになって「不要となった産業に働く人たち」は、どこで「稼ぐ」のか。考えなければ業界突然死に見舞われて路頭に迷うのか。ビジネスにおいて「ネットの普及が世界をフラットにした」「中間管理職が不要となる」ということと通ずる世界であると感じた。
しかしながら、上記の世界観は正しいとしても、フリーにできるものとできないものは存在する。フリーにはならない、リアルで重量を伴ったブツを提供する世界は、どこになるのだろうか、という視点は、当たり前だがこの本からは得られない。
2010年3月12日金曜日
佐々木 譲 :警官の血
彼があえて「血」というものを題名に持ってきた理由は明白である。代々受け継いだ「血」は、警官になることを通して描く自分の周りの小さな人生であり、祖父や父が背負った人生を精算しながら自らも受け継ぎ濃くしてゆくという、人間としての連綿とした生き方そのものであろう。三代に渡って、清濁併せ持つキャラクターに磨きがかかっていく様は見事である。そこに、あえて言うならば現代が全く見落とし見捨てた世界観があるのではないか。事件やミステリーは脇役でしかない。従って、事件の真相が肩透かしをくらうようなものであったとしても、それゆえにこそ、といったところなのだろう。
2010年2月7日日曜日
副島隆彦:ドル亡き後の世界
今まで、氏の「予言」が的中しているか否かについては自ら検証してはいない。本書に書かれていることも10年先の未来のことではなく、まさに今年の事であるから、とりあえずメモしておこう。本書の要約はこうである。
- アメリカの景気は2010年3月頃から崩れ始め、いったん持ち直すものの、2010年末にアメリカは恐慌に突入し2012年が大底となる。
- 株、為替、債権は世界的に暴落し「金融崩れ」が顕著になる。一ドルは80円を切り、場合によっては60~70円代に、ダウ平均は6000~7000ドルまで低落、日経平均も5000円を割る。
- オバマ政権は経済的な失敗から任期途中で辞任する。日本はいまだにせっせと米国債を購入しているが、中国は米国債を徐々に売る準備をしている。
- 債権価格は上昇。RMBS、CMBS、CDOなどの金融派生商品のリスクが一気に顕著になる。
- アメリカは借金を返せなくなり、デノミ、計画的なインフレを引き起こさざるを得ない。
- このような中で、中国のプレゼンスは必然的に高まる。
- アメリカ中心の世界は崩壊し基軸通貨としてのドルは地位を失う。
- 個人資金を保護するならば、金融商品ではなく「金」や成長可能な日本株を底値で買え。
副島本に共通する話題であるから、新規性は乏しいか。この話を信じるか否かについては賛否があろう。サブプライム問題を思い出しても、日本は当初は軽く見ていたらダメージは深かった。グリーンスパンが「100年に一度の危機」と称したが、思ったよりも早く経済は(日本を除いて)回復基調だ。マスコミは何を伝え、何を伝えない(知らない)のか、素人が経済新聞を読んでいるくらいでは、実際のところはよく分からない。
混迷は深まるばかりで、このような不安を政治的に払拭しようとする動きは全くに見えない。将来的に不安しかない状況が今の日本の現状であり限界なのであろうか。
2010年2月6日土曜日
オルテガ:大衆の反逆
オルテガを批判(した)する者は、エリートと大衆の区分についてであろうが、オルテガの貴族性とは内的なものであり、身分制度として述べているのでないことは自明である。過去からの時代精神や制度、思想などの恩恵の上に成立するはずの現代人が、過去の英知や努力などをご破算(無視)にした上で、果実のみを享受しているということ、あるいは権利のみ主張し義務を省みない者たちやその心象こそを、オルテガは批判したわけである。
発達した科学やシステムの中で、選択の自由度は増したにもかかわらず、それら生与の権利に対し無自覚であることが大衆の罪であるとしたことは、現代に生きる者にとっても的外れな話ではない。文明や生きていく上での前提条件ともいえようか。
彼の主張は、支配するものとしての「国家」にも言及されるが、彼のテーマは政治やイデオロギーにはない。ファシズムやポルシェヴィズムを批判的に述べているとしてもだ。彼の着眼は「生の衝動」という言葉などで繰り返されるように、生きること、文明社会の本質的そのものに対する問いかけのように思える。
そういう観点からは現代のネット社会に生きる我々が、彼の忌み嫌った「大衆」であることは論を待たないし、オルテガの指摘は今でも鋭さを失ってはいない。しかし、とことんまで分散し個別化した大衆が、改めて解体され再生されることがあるとしたら、そらがどういうことなのかは、今の私には見えない。
2010年2月5日金曜日
副島隆彦:売国者たちの末路
しかし彼が誰を支持し、誰を糾弾しているのか、そしてアマゾンの圧倒的な無垢な副島礼賛と覚えておいて良いだろう。
彼の視点は、日本国民を騙してアメリカに資金を流入させる者を売国奴と称しているわけであるから、小泉-竹中路線につながる人脈を批判するのは理解できる。小泉改革がすべて間違いであったのか、ということについては、いまだ私の中で評価は定まらない。規制緩和を進め競争を進めたことは、功罪相半ばといった印象がある。資本主義が悪いわけではない以上、正当な競争原理のもとで健全な発展をすることは間違ってはいないし、用がなくなった業界や企業が退場することも、いたし方がないことである。問題は、その退場のさせ方であり、あまりに急激な変化は社会不安を生むし、失業率の増加などマイナスの要因が大きすぎるということだ。「痛み」は理解するが、誰もその痛みを自分が負う覚悟はできていない。そういう点から、池田信夫氏が指摘するように、労働市場の流動性がないこと、あるいは大企業の既得権益が強すぎることが問題であるとする主張の方が理解しやすかろう。
こういう小泉路線に対して、守旧的な小沢、亀井路線が存在し、ある程度の支持を獲得している。副島氏も彼らを支持し日本を守るという姿勢を鮮明にしている。しかし、彼らの主張は時代に逆行し、真の意味で改革することを遅らせてはいないかという点に対する疑念は晴れない。特に彼が小沢民主党を支持することには違和感さえ覚える。鳩山は論外にしても。
「改革か成長か」「需要か供給か」「金融か財政か」といった、タマゴニワトリ的な論争は専門家にまかせるとするが、日本が大いなる混迷の中にあって、この本も混迷を深めこそすれ、光明を見出す本にはなり得ていないことに変わりはない。
2010年1月30日土曜日
松浦理英子:犬身
犬が好きな飼主に飼われる犬の気持ち、犬の心地よさ、犬の幸せ、犬の快楽が理解できなければ、この本には入り込めないだろう。私は犬を飼っているが、主人公の気持ちには全く共感を寄せることができない。そういう意味では、私は真に犬をかわいがってはいないということか。人間と犬にしか通じ合わない関係というものがあることを首肯したとしても、犬になって一生を終えること、犬の知性にまで(言葉は悪いが)堕ちてしまうことに、なぜ根源的な恐怖がないのか。人間としての実生活や人間関係を抹殺できるほどの絶望と諦念??
飼い主の家族の風景にも、嫌悪感しか覚えず。こんなグロで幼稚な精神しか持っていない家族を描き出して、どうしたいのですか。逃げ場のない不幸な者に、見返りを求めずによりそうこと、そこから得られる無償の幸福ですか?それは「犬」にならなくては実現できない「愛」ですか。だとしたら、かなり哀しい・・・。私は、人間のまま、人とつきあいたいです。(あ、それぢゃあ小説にならないか)
2009年9月4日金曜日
2009年9月3日木曜日
丸の内パークビルと三菱一号館
丸の内パークビルのグランドオープンと同時に開館記念として『一丁倫敦と丸の内スタイル展』が開催されていますので、さっそく観て来ました。
多くのお客さんは、パークビルに入るテナント(ブランド)店に興味があるご様子で、幾つかの店には行列ができています。私はそれを横目に窓口で500円の入場料を払って1号館見学です。三菱地所の丸の内開発の歩みや、当時の日本の風俗資料などが展示されており、それなりに楽しめます。しかし圧巻は、本建物を復元させた、そのメイキングドラマにあります。
日本というのは、戦前戦後の名建築と呼ばれたものを、老朽化、陳腐化、土地の有効利用、耐震性向上など、さまざまな理由を付けて壊し、新しい(更に陳腐な)建築を作り続けてきました。最近では東京郵中央便局がマスコミの話題となりました。
歌舞伎ファンの間では東銀座の歌舞伎座建替計画も物議をかもしています。東京駅丸の内駅舎は創建当初の姿への復原工事が進行中です。三菱1号館はJ・コンドルの日本での代表作ともなる建物。明治初期の丸の内に赤レンガの英国風町並みが出現し、馬場先通りは「一丁倫敦」と称されました。
建設当時の図面や解体当時の写真などを参考に、三菱地所や学者、設計者、施工者など多くの方々が関わり、多大な情熱と労力をかけて復元したのが本建物です。できるだけ忠実に当時の技術を再現というコンセプトで、外壁のレンガも、手すりや避雷針の鋳鉄も、そして銅製の雨樋も、ドーマ飾りも、現代の職工の技術の粋を集めて作り上げています。
メイキングのビデオも流されていましたけど、それはそれは、気の遠くなるような熱意と執念です。鉄製避雷針は鍛造で、鉄製連続手すりは鋳造で再現されています。ドーマ飾は生の銅板金を叩き出し、経年変化で緑青が自然な色合いに変化することを期待するという拘り方。
明治の技術復元は当時の耐震技術にまで及んでいます。煉瓦の間に「帯鉄」と呼ばれる補強鉄板を挟み込んだ構造は、現在でも耐震効果が期待できるのですとか。煉瓦の製作は中国。当時の煉瓦の肌合いを再現するため、ほとんど手作業に近い工程で230万個もの煉瓦を製作しています。下のパンフレットの右写真が煉瓦工場で型に土を詰めている作業風景。本展を観に来ていた若い女性が「肌合いを再現するためですって!?」と、ほとんど煉瓦フェチとも言える様な執着に驚きを通り越した気持ち悪さを表明していたのは印象的でした(笑)。一個3kgの煉瓦を日本中から集めた煉瓦職人がひとつづつ積み上げた。屋根は本来は宮城県雄勝産のものであったのですが、量を確保できないためこちらはスペイン産の天然スレート。内部も、当時の空間を再現しており、木製の扉のや窓の金物ひとつとっても、いったい幾らかけたんだろうと余計なことを考えてしまいます。
展示室の最後には、本建物の復元に関わった職人の写真が、ドドーンと並べられており、これまた圧巻。いくらお金持ちやアタマのいい人たちの熱意と執念があっても、しょせん建築は泥臭い「ものづくり」の過程を避けることはできません。彼らが居てこその建物であることは確かに覚えておいて良いでしょう。
全てが特注品の建物。最近の建築物がのっぺりして、どれも金太郎飴のようでつまらないとお嘆きのあなた、歴史好き、建築フェチなあなた、きっと満足すると思いますよ。
2009年9月2日水曜日
高村薫:新リア王
感想というよりは、この長大なる小説を理解せんとして、読みながら書いた備忘録のようなもの。まとまった文章にはなっていませんので、ご容赦ください。最後は(自分で言うのもなんですが)支離滅裂になっています。
『新リア王』を読み始める。
晴子と彰之の母子の物語であった「晴子情歌」続き、榮と彰之の父子物語となっている。叙事詩と言っていいほどに、語りが深く長い。政治家の一日にしても、曹洞宗の作法や教えについて、あるいは出家時代の話にしても、ここまで克明に語りつくすことが本当に必要なのか、何のために書いているのかという気になる。辛抱のない読者は最初の数十ページで投げ出してしまうかもしれない。小説の長さや改行のない文章について不平や苦痛を表明する人は多いようだ。瑣末的な事象、特に曹洞宗などに関する哲学問答に関する批判も多い。
しかし、本当にこの小説は「長すぎる」のか? 私は否と考える。それが高村氏の小説作法なのだろうと。瑣末な事柄を積み重ねることでしか見えてこないものがある。それは彼女の小説で一貫しているし、研ぎ澄まされることはあったとしても、緩むことはない。
彰之がこれ程の修行を通しても仏教的境地には達することができなかったという挫折感を書くためには、あえて冗長なる文章を連ねる必要があったか。あるいは、榮の永田町での一日も同様。政治家の一日とはどういうものか、政治家とは何を考え、どういう人種であるのかということを彫琢しようとするならば、克明な一人称的記述が適切との作家としての回答であったのだろう。
最初の数章の「くどさ」は皮膚感覚として強烈な印象的を残す。あえて瑣末という批判を覚悟で描ききった高村氏の筆力に私は脱帽する。何だか分からない力に押されて、とにかく読む進めるというのが、本書に対する読書作法か。高村氏は小説にミステリーどころか、ストーリーも求めてはいない。それを求めると裏切られることは『晴子情歌』で経験済みである。
政治とは、宗教とは
本書は1980年の衆参同時選挙の頃を舞台としている。保守崩壊を予測したと帯にあるが、奇しくも2009年8月30日の衆議院総選挙では、保守逆転、初めて自民党が政権野党に転落するか否かが焦点となっている。
本小説では、政治とは政治家とはいかなるものか、ということが書かれているように思われる。政治とは我々の生活そのものであるという前提であれば、我々の代表としての政治という段階で、政治はある団体の利益代表であることを意味する。政党をpartyすなわちpartということからも、政治は誰かの代表であり、誰かの代表ではない。
高村氏が青森を舞台に政治を書くことを当初から意図して『晴子情歌』を書いたわけではないことは本人のインタビューにより明らかにされている。それでも戦後政治を書くにあたって、辺境の地と書くと地元の方には失礼を承知だが、まさに適切であったといわざるを得ない。
上巻読了
高村氏はクリスチャンであるのに、なぜ宗教の中で仏教をテーマとしたか。初期の作品から私は「解放と救済」のテーマを読み取った。ドン底からの救済であったとしても、最後に他律的な解放であったとしたら、余りに小説的ロマンでしかなく、現実味がない、あるいは最終的な救済に安易さを感じたことも確か。
それがキリスト教的な救済であるということではないにしても、解放の果実を得るにはもっと厳しい道程があるのではないかと。そういう観点から、修行を通じて悟りにいたるという仏教がテーマとなったか?
クリスチャンといえば高村氏もクリスチャン。それなのに曹洞宗の教義について、あそこまで深く掘り下げて挑んだということに興味が尽きない。禅宗的形而上世界での悟りと埴谷雄高の認識論的なものと対峙させようなどというテーマは、私にはちょっと壮大に過ぎ、これまた手に負えないという感じ。日経新聞で評判が悪かったのもむべなるかな、朝の通勤途中に読むには重過ぎる。(もっとも、渡辺淳一の小説も、朝から読む小説とは思えなかったが、こちらは人気を博したことは記憶に留めておいてよい)
小説の主人公になっている団塊の世代と私らの世代では思想的背景において新人類は大きな隔たりがある。たとえば丸山にしても吉本にしても、あるいは埴谷にしても、学生時代の読むべきときに読まなかったことを深く後悔するばかり。ドストエフスキーとかシェークスピアだって読んだと言えるか、だ。
父と子の微に入り、細にわたる応答は、政治と宗教の現実、理想化されていない意味において、身体的ともいえる実態を語ってはいる。その可能性と限界。
例えば政治は人間の生活そのものだとして、政治家は理念と理想を語るが、地元民、選挙民は具体的な見返り「銭コ」を求める。目先の地域振興と経済だ。かつての保守政治は、地元利益還元の代表として機能した。一方で宗教は、人の精神活動の一端といえるか。しかし菩提発心して悟りを求める修行を行っていたとて、禅的悟りにはいたることのできない中途半端な彰之がいる。あるいは酒呑みのナマクラ坊主としての内和田和尚だ。聖というには余りにも俗。それでも俗人の先頭に立つためには、聖であらねばならぬ。
いやいや、政治と宗教の対立は上巻には見られない。榮は雲水としての彰之の考え方こそ追求するが、それはわが妾腹の息子が何者であるのかを確かめたいがため。異物か自分の後継者かと。一方の彰之は「縁薄い」関係のため「生き直す」として送行し、冷静かつ無垢なる目で政治の現実を語る。
この両者が交わるところはあるのか。改めて両者を考える。全く父子という関係も感情も持たなかった二人が、一方は権力と地位を極めた自民党保守の代議士として、一方は仏家(雲水)として対峙する。
上巻に描かれるのは1987年の永田町、そして1980年福澤が絶頂期。しかし、その絶頂期のときに足元に忍び寄る影を、互いに二人は確認している。榮は衆参同時選挙の大勝利により、一時的にその影を短くしたとしても、息子優から感じる世代の違い、違和感と不信を拭うことはできない。
一方で彰之の心情も全く不明なまま。なぜ東大卒業の後、北転船に乗り込むというような進路を、そして上陸のたびには寺に通い、ついには出家してしまうのかという経緯については語られることはない。しかも初江との間にもうけた秋道の存在がどう展開するのか。一方で、榮がなぜ国会から脱走してきて青森にまで来たのか。さらに、滞在を秘書にさえ伝えず、彰之との対話が完結しないため滞在をずるずると延期するという異常さ。その理由も上巻では語られることはない。しかし、互いに失意と挫折の中で、互いの心情を次第に吐露し始めているということだ。
上巻を読んだ段階で、いくつかの読者評を拾い読みしてみる。どれも隔靴掻痒、咀嚼もできず感想にさえなっていない。しかしその中でひとつの指標もないわけではない。
彰之が仏門に入った理由。仏門の目指すところは菩提心、すなわち自分を超え一切の因縁から解脱し仏教的悟りの境地に至ることであるとする。彰之が捨てたかった因縁とは、すなわち福澤家という血統、血縁、まさに血族、自らの出生であったか。その自分を自分として成り立たせているものから解脱=解放を試みるということ。
一方で、福澤家の因縁全てを背負った父榮は、その縁を最大限に利用して成功し、またその縁により裏切られる。個人の生き方の両極端を象徴する父子が、政治と宗教という枠組みの二重構造の中で対峙する。やはりそこに和解と理解はあるのか、あるいは対立のみか。彰之は現世の縁を生き直すことで再度それを捨てるという解放を得ることができたのか。
「政治家と僧侶。二人の対照的な父子が交わす対話から、戦後日本の転換点が見えてくる。」そう、戦後政治の転換点ではない。戦後日本の転換点。秋道に対してこれが日本政治の結論かと嘆く榮。戦後日本が生み出したものが何であったかを問うているか。考えてみれば、団塊の世代の哲学論についても同様か。神なき後の理性による世界の認識とその敗北。確かに高村は「政治」というものを書いたが、政治の先にあるものは何か、それは日本のありようであり、すなわち日本人の生活と生き方そのものではないか。何を重視し、何を求めてきたかということ、それは極めて政治的な帰結であるといえる。簡単に「政治」というが、政治とは何かだ。
現代日本のありよう、精神的、政治的混沌と低迷は政治と宗教に因を求めるのか否か。
こうして上巻を読み終えて考えてみると、何も始まっていないし、何もまだ語られてはいない。そういう意味では、後半に「動」があるとするならば、まだその前哨でしかないのかもしれない。父子が一体どういう境遇にあって、いま二人は対峙するに至ったのかという。
進みが遅いといわれるかもしれないが、非常にスリリングな展開であるともいえる。上巻では二人の人物像が幾重にも語られてきた。今後、二人の言葉の中から、何が剥ぎ取られ、何が見えてくるのか。あるのは対立か理解か、あるいは絶対的な孤独か。
仏教、政治、対話ということ
高村氏は何ゆえに仏教をテーマとしたか。阪神淡路震災のあと漠然と次は仏教だとは思っていましたが、とくに宗派は考えていませんでした
と本人は語っています。キリスト教にではなく仏教をテーマを求めたことの真意は私には分かりません。彰之が我執からの解脱=悟りを目指したということは、我執、すなわち自らの福澤的なるものからの解放ということになりましょうか。
一方で、その福澤的なるものの代表であり、更には日本の戦後保守政治を代表として登場する榮。その榮が対峙するものは我執を捨てんとする彰之と、自らの政治人生を否定するかのごとき優という二人の異母兄弟であるという、75歳にして到達したこの絶対的な孤独。榮は彰之が理解できずお前は一体何者なのだと問い続ける。ああ、いったいに高村氏は何を下巻に書こうとしたか。
高村氏いわく。
私の世代は、何かを語ることは~書くことも同じですが~、自分が人間として生きている証なのです。彰之もそういう世代です。だから、あれだけの言葉が出る。
言い換えれば、『新リア王』は80年代半ばだから成立する話です。2005年だったら成立しないですよ。父も語らないし、息子も語らないでしょう。
仏教の哲学
- 実存主義は自我の上に成立した思想であるに比べ、仏教は無我の上に成立
- 実存的に仏教を考えるとき、ニーチェやサルトルなど、いわゆる無神論的実存主義者たちの言う「仏教は現実からの逃避である」とか、「釈迦は人のことを心から思いやる情愛のない人であった」とかいう考え方
- キリスト教的実存主義は神へ向けての主体性を唱うのですが、無神論的実存主義は存在の本質を問うのではなく、存在の虚無・不条理を乗り越える主体的な生き方を問う。実存主義者は量子論の現れる前の、唯物論や霊物二元論時代における認識「頭脳で認識する現象の、対象である物自体の世界は実体として存在する」という世界観から立ち上げられている
- 「世界は主観的観念に過ぎない」という仏教思想と正反対に「世界は客観的に存在する」
- 実存主義は自我の上に成立した思想であるに比べ、仏教は無我の上に成立
- 埴谷雄高の「不同律の不快」とは。「不同律」とは論理学的な「同一律」すなわち、「A=Aである」ということだが、埴谷はそういう意味合いで使ったのではなく、「私が私ではないこと、すでに生まれたときから本質的なものが決定されていて、変れないこと」に対して「不快」であった。
下巻読了
仏教論争の印象が強かった上巻だが、後半は保田英夫の死に向かって物語りは収束していきます。最後の終結の場面は、あたかも探偵小説の謎解きの場面を彷彿とさせます。しかしながら、小説形式が最後まで「対話」に終始することは変らず。ひたすらに「語る」ということが意味を持っていた世代や時代の物語を書ききったということなのでしょうか。
榮は息子優の造反を裏切りととり、小説最後で自ら福澤王国を解体してみせます。その後に残ったのは、もはや孤独でしかなく。そのときに初めてか、彰之の仏道に入りきれない緒縁と彼の孤独を理解し、もしかするとこの4日間において、一番理解しあったのはこの二人であったのかもしれません。
政治的風景は、単なる世代交代ではなく。戦後政治の代表たる榮、リベラリズムを目指す優、微妙に立場を変える官僚のなど、80年代から日本が徐々に舵を取ってきたありようが、彼らの対話の中に凝縮されています。民主党政権が圧倒的な勝利を収めた今回(2009年8月)の衆議院選挙を待つまでもなく、高村は保守の崩壊を予測しました。現実世界では、ニューリベラリズムの崩壊としてではあるが。
知識不足から論理が破綻したので稿を改めよう。
リア王の悲劇として考えた場合、彼の生きた時代を考える必要がある。語られるのは1967年から1988年頃までの日本、中央政治と地方のそれ。1980年代前半の福澤王国の映画は、日本の政治もリバタリアニズム、改革の方向へと舵取りを始めた時期だ。榮は利益再配分の戦後政治、田中型政治を体現してきた人物として描かれますが、2人の息子はその政治のあり方に造反する。3人が政治的対話を行っているシーンは、まるでドストエフスキーの小説のよう。微妙に立場の違う二人の息子を榮はついに理解できず。深い溝が残る。
戦いの結果は息子に軍配が上がるが、本当に勝利したのかはについては描かれない。息子の勝利により福澤王国どころか地方的な血族までもが崩壊するのは象徴的。日本の政治的風土が変革し、日本の戦後のいくつかあの神話が崩壊して行くのは本作品よりも後になる。
1980年代に宗教は明らかに死んでいたい。しかし別な形で宗教がまたは心の問題が取り上げられる時代を準備していたという点において、新リア王はまたしても次なる作品の序章でしかないことに気づかされる。新リア王は結論も解決も提示しない。一つの時代の崩壊を描ききったという点で、その小説の持つ内的世界は凄まじく大きく昏い。
全体として作品を眺めれば日本人としての方向性、それも戦後地方の貧しさから出発し、国民が同じ夢を見た時代から個人主義、ニヒリズム、ポストモダンと近代を否定し混迷の時代に突入するそのまさに転換期。 政治が変ったということは人間の心のありようも変ったということだ。
政治が人民を救済しえなくなったように、宗教も衆人どころか個人さえも救いはしない。 理念とか理想とかの共通認識が崩壊していいく。 本来的には共同や個をまとめるのが政治と宗教の役割であったとしたら、その双方が変質してしまった。
次なる時代に日本は阪神淡路のカタストロフを経験し、さらにオウムへとつながる。高村の関心は当然にそこに向かわざるを得ないだろう。
新リア~関連サイト
感想をまとめるに当たり参考にしたサイトを順不同で列記しておく。
2009年9月1日火曜日
ポピュリズム
民主党とて安定多数を得たからと言って安心できるわけではありません。組閣人事におて民主党内の意見調整にしくじるだとか、人事が期待はずれになるだとか、マニフェスト実現に向けてブレが生じるなど、国民から「自民党と同じぢゃないか」と思われれば、急速に民意は離れるでしょう。政権さえとれば、ばらばらな党内が一致団結する、というのも一理ありましょう。しかし、小沢、菅をはじめ、岡田、前原ら微妙に意見の違う党幹部を調整してゆくことは、今回選挙の結果からも難航が予想されます。
国民が望んでいるのは「分かりやすい」政治であり、最近の記者もキャスターも「YesかNoでお答え願いたい」「やるのか、やらないのか」と二者択一で政治家に回答を求める場面が多くなってきました。政治家は曖昧な回答で逃げる、その政治的曖昧さこそが、国民の苛立ちの一因であるのかもしれません。阿吽や辛抱ということはデジタルな社会にはなじまない。オバマの演説に感動した人は、政治家の言葉のストレートさにこそ打たれ、かつて小泉首相が圧倒的支持を受けたのも、ワンフレーズによる分かりやすさでしたか。
あまりにも見え透いた分かりやすさに騙されるほど、国民もバカではありませんけど、国民の移ろいやすさというのは、ある意味で危ない点もあると考えた選挙後の風景でした。
それにしても鳩山政権の行く先がどこにあるのか、いったい誰の利益代表足りえるのか。回答は見えているようでいて、いまだはっきりしないのが本音といったところでしょうか。
2009年8月31日月曜日
衆議院選挙の結果
衆議院議員選挙は、蓋を開けてみれば民主党の単独過半数確保、絶対安定多数確保の圧勝という結果で終わった。風が吹いたというより暴風というのが印象でしょう。
民主党の圧勝の理由として、国民の多くが、自民公明による一党独裁に近い戦後政治に嫌気がさしただとか、小泉政権が生み出した格差に対する不満とか色々な理由ありましょう。小泉政権下での郵政民営化を争点として争った前回の衆議院戦況。あの時は、鳩山代表などが伸び悩む当選者の報を前に暗い顔をしており、立場は逆転したものの、全く今回と逆の風景であったと思い出します。これが小選挙区制の怖さと言ってしまえばそれまでではあります。
今回の民主圧勝について考えるに、小泉政権が誕生した2001年あたりから、自民崩壊の芽は顕著になってきたのだと考えています。小泉氏は「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズで、当初、国民の圧倒的な人気を獲得しました。小泉氏が持ち込もうとしている政治とか制度が何であるのかも理解せずに「変革」というムードに乗ったというのが当時。それと同様に、郵政を象徴的なものとして「解体=改革」するというイメージを刷り込み、自民分裂に追い込みながらも、自民対自民の構図を作り上げ与党圧勝を演出したのが前回の選挙。世界同時不況後の米国でのオバマ旋風は「改革」を旗印にしたエネルギーを感じ、翻って更にわが国の閉塞感に、みなもう嫌気がさしていたというのが本音か。マニフェスト選挙とか言われたとしても、民主党を完全に信頼するほどに国民もバカでも無知でもない。しかし、それであっても自公政権の顔ぶれとやり口には、もうウンザリというのが正直なところでしょう。
ですから、積極的な選択としての民主党支持ではありえず、あくまでも私はムードとしての変革であるのだと考えています。民主党が今後どのような政権運営をするのか。民主党政権は、小泉政権の進めた規制緩和と市場主義(新自由主義)の反動からの格差社会を是正することを目的としています。当面は外交問題などよりも、弱者救済、セーフティーネットの拡大、既得権益からの利益再配分、平均的消費拡大による内需拡大とその結果としての経済再生という方向で考えるのだと思います。
それはそれで悪くはありませんが、結局は限られたパイの中での利益再配分ですから、誰もが果実を得られるわけではなく、それに気づいたときには、どこかから反発と反動が生じることは予測されること。国民の圧倒的多数による支持政党というのは、もはやファッショでしかありませんから、それほど民主政権が安泰とも思えない、いずれまた反動が生じるのではないかと考えています。
2009年8月28日金曜日
鴻池朋子展~インタートラベラー 神話と遊ぶ人
東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている『鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人』を観て来ました。
今回の展覧会は、鴻池さんの作品を「地球の中心への旅」をテーマに再編成したもの。展示場そのものが、作品を「体験」するような構成になっており、全体が大きなインスタレーション空間であると言えるかも知れません。詳細な説明は、公式HP(→http://www.operacity.jp/ag/exh108/index.html)かtakさんの『弐代目・青い日記帳』をどうぞ(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1825)
鴻池さんの作品は、グループ展や絵本、挿絵などで観た事がある程度でして、こうしてまとめて鑑賞させていただくのは初めて。イマジネーションの抱負さには感心します。繰り返し用いられるモチーフの持つ意味とか、ついつい深読みしたくなりそうですが、どうやら鴻池さんの作品に、あまり「深刻」を求めるのは野暮のようです。どうして子供の上半身がないのとか、どうして下半身が人間なのとか。「見えない子供の上半身を見つけようとしてもムダ、それはもともとないのだから」という鴻池さんの挑発。イメージを爆発させるためには、美術館なんか徘徊していちゃダメだと。
何と言ってもテーマが「神話と遊ぶ」なのですから。最初の襖を入り、だんだんと「地球」の奥に入っていくという「体験」は、なかなかスリリングです。彼女の絵本の原画などを観てわき道にそれつつも、だんだんと地底深くに入っていくという、謎めいた体験。次に何がくるのか分からないので、例えは悪いですが「お化け屋敷」のようなワクワク感があるといったら良いでしょうか。
地球の中心の部屋はまさに驚きの一言。入った瞬間に「わぁ!」と声が出てしまいました。こうくるかと。眩暈のしそうな空間。乗り物酔いがある人は気分悪くなるかも、です。私はその芳醇なイメージ世界に思わず見とれてしまいました。ガラスと光の空間は、彼女の他の展覧会写真を見ると、これもよく使うモチーフ。でも使い方一つでこうなるかと。
「地球」というもののなかに、彼女の好きなものをギュっと詰め込んだ展覧会。彼女のエネルギーの一端に、あるいは自らの創造力のパワーに脱帽。彼女は、「ほら、こっちきて遊びなよ」と誘うけど、実は彼女の内実は、創造のステージにおいてはギリギリまで自分を追い詰めているようで、作品の厳しさを見せ方で覆い隠しているような雰囲気は感じましたね。ただ延々と普通に彼女の作品が壁に並んでいると、ちょっとつらいかも、です。
2009年8月26日水曜日
民主党政治に期待できるか?
30日の選挙が近づいてきた。民主党が300議席確保かなどと新聞や週刊誌では予想されている。もはや政権交代は既成事実のような雰囲気さえある中で、自民党の民主党に対するネガティブ・キャンペーンも熱を帯びてきている。「一度でも民主党に政権を渡すと破滅」などと、まるで麻薬か何かのような書き方だ。英ファイナンシャル・タイムズ紙では、日本も一度ギャンブルをしてみては、などと揶揄される始末。
野党の政策を並べてみても、民主、社民、共産、新党日本など、微妙な部分での食い違いはあるため、民主の圧勝という結果は政治風景として望ましいものではなかろう。民主の中でも党員の出身母体から寄り合い所帯という批判もある。しかし、政権を取ればある程度まとまることは期待されようし、逆にその多様性が政策的議論も高まるということもある。
何と言っても、私たちは自民党政権しか経験したことがない。現状の閉塞感から「変革」を求めるムードだけで決定されてしまうことに恐れがないとも言い切れない。政治は対立を含む。対立とは並存する利益団体とそれに属する者たちと属さない者たちとの対立であり、パイが限られているならば利益の再配分を意味する。そういう点において、現在の政治風景は自分たちの利益代表が誰であるのかが見えにくい。地方農民にも都市農民にも、中小企業社員にも大企業社員にも、あるいは子供のいる家庭にもいない家庭にもフィットする政党の存在ということそのものに無理があるように思えます。