「コンセント」は各方面から賞賛と驚愕をもって迎えられた小説だった。村上龍氏も絶賛しており、10年に一度の傑作とか、こういう小説を読みたかったのだと凄い褒め様だった。私も出てすぐに読んだが、「コンセント」は衝撃的な小説だった。引きこもりの兄が、自宅で朽ちるように死んだ謎を追い求めながら、自分探しの旅と現代の社会に生きる人を炙り出すような小説だった。
今回の「モザイク」にしても、三部作というだけあって、田口の考えている方向性はひとつであることが分かる。端的に言ってしまえば、現代に生きる若者=大人たちからは理解されがたい行動をとる若者や、猟奇殺人に走る少年達は、ほんとうは異常者なのではなく、情報社会といわれる現代で生き抜くための新たなOSを持ち始めた者たちなのだ、という論点だ。
また、主人公達は「コンセント」だったり「アンテナ」だったり、ある人たちに対して巫女だったり、アースだったりするような癒しの人物も登場させ、物語を構築している。そして、「世界は記憶で成り立っている」「記憶を作るために人間がいる」「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」などの大胆な発想を展開している。
今回の小説は、家庭内などで問題を起こす人達を説得し精神病院に行くように薦める「運び屋」を職とする主人公ミミが、輸送の途中で疾走を遂げた少年を探すというストーリーだ。しかし、それは救済とか病理をえぐるとか、異常者(というカテゴリー)を肯定するというものではない。
世間で「異常」と見られてしまった少年にただより沿い、彼の感じていることを主人公ミミを通して読者に見せてくれる。またそれが、いろいろな人の心の中にあるモザイクを共振させることにつながっているのかもしれない。
一見して現代の病理を書いているような体裁をとりながら、その背景や原因を追求しているわけではない。ただ、その病理(と彼女は考えていない)の横に寄り添い、話しを聞いてあげている、彼らの言うことを受け入れている、そうすることで作者のの世界観を語る、そんな小説なのだ。
田口ランディというのは、不思議な雰囲気を持った人なのだと思う。メールマガジンを読んでいても感じるのだが、彼女の文章を読んでいると人の持つ虚飾や見栄が剥ぎ取られて、純粋にからだというものが剥き出しにされてしまうように感じることがある。難しく頭で考えることが、卑しく感じられてしまうことがある。それは、彼女が身体性とか関係性(コトバには還元できない、もっと直接的に心に響くもの)を重視しているからなんだと思う。
そして、最後には決まって、なんだか自分が他者に対してやさしくなったような気にさせてくれるのだ。
もっとも、「渋谷の底が抜ける」「渋谷が電子レンジ化する」というコトバは衝撃的であるが、小説としては、「モザイク」には及ばないような気がする。少年の言葉が説明的であり、小説としてのリアリティを欠いているとは思うからだ。また、彼女の小説に共通の、ラストのありかたにも疑問を感じないわけではない。しかし、それは作品上大きな問題ではないのかも知れない。彼女の描く圧倒的な内実は否定する気持ちを無視して心を打つのだ。
現代が、ある人たちにとってはかくも生き難く、新たなOSが必要とされているという大胆なテーマには深く考え込んでしまう。私のように古いOSに育てられ、古いOSしか身に付けなかったものには、新しいOSで生きる人たちの社会を思い描くことは、四次元を想像するよりも難しいと思うのだった。
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