2001年11月25日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第6番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲の中で何を最高傑作としてあげるのかを考えることは、難しくも楽しい作業だ。シベリウスをこよなく理解し愛している人にとっては、ことさら悩ましい問題であるとは思うものの、おそらくは7番を、交響曲の示した形式と内容を含めて一番にあげるのではないかと予想する。私としても、まだ7番のレヴュウは書いていないが、その考えに同意する。一方で、シベリウスを余り聴いたことのない方は2番をもって最高と考えるかもしれない。これとて無理のないことだ。シベリウスの演奏機会を考えれば2番とバイオリンコンチェルトが演奏される機会が圧倒的であろうし。
しかし、この6番をじっくり聴いてみると良い。たかだか30分弱の短い曲ではあるが、まさにシベリウス的な世界が、それもフィンランディアや交響曲第2番のような主張的な部分のない、独自の世界が広がっていることに気付くだろう。7番と優劣をつけにくいと思わせるのだ。
デイビス&ボストン盤を幾度も繰り返し聴きイメージを固めてみた。聴くにつれ、この曲の持つ深遠さと美しさに文章にとして記すことの限界を痛切に感じたものである。標題性や人間的な克苦などを感じさせない、純粋にして音楽的な感動が広がるのだ。それでもレヴュを書くに当たってはイメージしたことを文章にせざるを得ない。ある比喩は、その瞬間に浮かんだ心象でしかないため、明日あるいは数年後に同じようなイメージが浮かぶことは保証できない。ましてや作曲家のイメージとはかけ離れたものであろう。それでも、そのような文章でしか今は音楽を語ることができない、ということを前提に読んでいただきたい(久しぶりに書くとくどいな)。
さて、この曲を語るときに第一楽章の美しさは圧倒的であるということからはじめなくてはならい。冒頭のヴァイオリンで奏でられる第一主題の透明感と広がり、そして神々しさはシベリウスの作った最も美しいメロディにあげられるかもしれない。彼の音楽の持つ独特の煌きの中に永遠にも続くと思われる至福の時間が込められていることを思うのだ。
私は今までに何度か、シベリウスの音楽の魅力は煌きのようなものだと書いてきた。この冒頭主題にいたっては、氷点下の凍て付いた空気の中でキラキラと輝く氷のような煌きさえ感じるのだ。
曖昧な捉えどころのない副主題からチェロのモチーフに至る部分も聴き所だろう。チェロは若干哀愁を帯びるものの感傷的ではない。この後も、冒頭のテンションがひとつも緩むことなく駆け抜けてゆく感があり、あたかも広々とした雪原を颯爽と馬車で駆け抜けているかのようなイメージが続く。
最後に総休符をはさんだ後の金管群による額句が挿入されるが、これは何をイメージしているのだろうか。私は、その厳かさと神々しさに何か偉大なる存在さえ感じる。他の交響曲でも感じたことだが、それは極めて崇高で宗教的体験に近いが、キリスト教のような特定の宗派を想定させるものではない。むしろ自然に対する畏敬や畏怖から生じるようなものといったほうが適切かもしれない。
第二楽章と第三楽章は非常に短い。繊細さと静けさを感じさせる冒頭から後半の明るさの対比が美しい第二楽章、スケルツオ風の騎行的なリズムにのって軽快に唄われる第三楽章など曲としての面白さも多い。響きも極めてシベリウス的でありしかも内省的であると感じる。第三楽章の軽快なリズムさえ、どこかへと一足ごとに進んでゆく足音を感じる。
第四楽章は再び深遠にして崇高なる世界に引き戻される。冒頭の切迫と哀愁を帯びた弦と木管による上昇と下降の音形による応答が繰り返され変形しながら音楽は進んでゆく。何かに対し問いかけている作曲家の姿なのだろうか。優しい調べがフルートで添えられる。音楽はその後急速に駆け出し盛り上がりを作り始めるが、開放し外に叫ぶような高揚ではなく、内部の高まりと喜びを抑制しながら歌い上げているように感じる。
金管によるクライマックスがあるかと思ったら、はぐらかすように音が殺ぎ落とされ冒頭主題が回帰するあたりは第4交響曲を彷彿とさせる。この部分は何度聴いてもぞっとする。最後に盛り上げて終わることをせず、あえて素朴なる弦による結尾主題で静かに曲を閉じたシベリウスの意図について推し量るのは難しい。消え入るような終わり方は、冒頭主題へ円環のようにつながる永遠性を感じるというと、考えすぎだろう。この主題の終わり方には何かへの深い祈りのようなものを感じさせずにはいられない。
��・デイヴィス&ボストン盤を本シリーズのベース演奏にしているが、これがシベリウス演奏の最良盤であるからという理由ではない。たまたま家にあった全集版であるという以外には明確な理由はない。それでも、こうして聴いてくると、クセのない素直な演奏なのではないかと思えてくる。デイヴィスには新録もあるし、ボストン響も十分に上手いわけではないという評価もあるのだろう。それでもストレートに曲のよさを、過度の装飾や思い入れを入れずに演奏しているという点では評価できるものであると思うのだ。

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