k-tanakaの映画的箱庭でヴィスコンティの傑作「山猫」が上映されていることを知り観てきました。イタリアの至宝、映像の世界遺産とでも言うべき作品が国を挙げての文化事業として復元され、撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノの監修で何度も改良を重ね今世紀に入ってようやく終了、「イタリア語・完全復元版」として甦った。
ということだそうで、堂々3時間6分の大作として劇場に蘇ったことは、それ自体が感動的な出来事と言えましょう。
改めて観ますと、映画の重厚さ、映像の華麗さ、演技の深みなど、全てにおいて圧倒されてしまいます。映画の1/3を占める舞踏会のシーンも圧巻なのですが、シチリアの乾いた風土や、脇役たちの悲喜こもごもの表情などにも人柄がにじみ出ており、どこを取っても完璧な出来です。
配役では没落する貴族サリーナ公爵を演ずるバート・ランカスターが圧巻ですが、甥のタンクレディを演ずるアラン・ドロンの野心を帯びた若さもさすがで、彼の鋭い光があるが故にサリーナ公爵の翳が一層際立っています。タンクレディの婚約者アンジェリカを演ずるクラウディア・カルディナーレは個性の強い顔立ちで、私はあまり好みではないのですが、映画では抜群の存在感です。彼女の存在なくしてこの映画はあり得ないとも思え、好き嫌いのレベルを超えています。あの品のない笑いには、思わずこちらも失笑、いやあ素敵です。
舞踏会のシーンは、もうおなかいっぱい、ウンザリ、というくらいな映像なんですが、貴族たちというのは礼儀正しくも放蕩で、しかも体力があったのですね。ウェストを絞ったドレスを纏った淑女たちと正装や軍服姿の紳士たちが、汗だくになって夜通し踊り続けるのですから。ヴィスコンティにしてみれば、華麗な世界の再現とともに、サリーナ公爵がつぶやく「無意味な会話」というような壮大なる浪費までも表現しつくしたということでしょうか、何ともシニカルです。
「山猫」を観ていると「椿姫」を思い出しましたが、それは華やかな舞踏会のシーンだけのせいではなく、第2幕第2場「あたしたちははるばると訪れた(ジプシーの女たち)」などの旋律を、シチリアの下手な楽隊に演奏させたり、ヴィオレッタのアリアを避暑地の聖堂のオルガニスとに演奏させたりと、映画の中でさりげなくヴェルディしていたからなんですね。フランスのクルティザンの愛の音楽を聖堂にですか。これもヴィスコンティの演出でしょうか、それともヴェルディがそれほどまでにイタリアに溶け込んでいるという査証?
サリーナ公爵がカラヴァッジョかグレゴ風の絵に見入っているシーンも印象的です。自らの死を見つめながらも、それに抗うことなく実を任せる姿。サリーナ公爵の晩年の在り方は、新旧の交代という意味からマーロン・ブランド演ずるゴッド・ファーザーのラストと微妙にダブりました。
映像美ということでは、有名な舞踏会のシーンは蝋燭のシャンデリアなのに妙に明るかったり、影がシャンデリアの光源からはありえない方向からのものであったり、ヲタク的に観るとおかしい気もするのですが、キューブリックが「バリー・リンドン」で使ったようなカメラを、ビスコンティが持っていたら、どうなっていたんでしょうね。
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