- ヴォイレッタ:アンジェラ・ゲオルギュー
- アルフレード:フランク・ロバード
- ジョルジョ:レオ・ヌッチ
- フローラ:リー=マリアン・ジョーンズ
- アンニーナ:ジリアン・ナイト
- 指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ
- コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団、合唱団
- 演出:リチャード・エア
第1幕
前奏曲が終わってヴィオレッタの客間での宴会からオペラは始まりますが、ここで登場するヴィオレッタときたら、肩まで露にしたドレスを身にまとい、あの細いウェストのどこから、あんなに高いコロラトゥーラ・ソプラノが出てくるのかと不思議になるほど。歌と映像に溜息の連続です。なにせ私は他を知らないので比較もできないのですが、ヴィオレッタ役というのは、揺れ動く激しい女心を短い時間の間で表現しなくてはならない、かなり難しい役どころなのではないかと思うのですが、アンジェラは実に見事に演じきっているように思えます。そして、どこを聴いても名アリア集を聴いているような「椿姫」ですが、全体あっての部分であることを改めて思い知らせてくれます。
第1幕では、「ああそは彼の人か」から「花から花へ」と歌い継がれる場面など、ぞっとするほどに美しく仕上がっています。ヴィオレッタがアルフレードに傾ける心を歌いながら、結い上げた黒髪をほどいてゆく演技をしながら歌うのですが、今までの頑なな自分の心を解放してゆくことを暗示しているようでもあります。ふと我に返って「花から花へ」を歌うところの心の迷いと狂乱振りは、背筋に寒気さえ走るような演技をみせてくれています。
ヴィオレッタが自分の薄幸の身を嘆き、アルフレードの愛に身を任せることをためらう独り言の後に歌われる「花から花へ」ですが、"Sempre libera degg'io Folleggiare di gioia in gioia"(いつも自由で、歓びから歓びへと舞い狂わねばならないの)とはじまるところは、ほとんど声が割れているような歌いっぷりなのですが、それがヴィオレッタの自暴自棄さを表現しているようで、何度観ても涙をそそります。
ヴィオレッタのアリアに、アルフレードの「愛の主題」"Misterioso altero, Croce a delizia al cor"(神秘的で誇り高く、心は苦悩となり、歓喜となる)が、被さるように歌われるのですが、ここはいかにもヴェルディ的であるなあと思いました。
というのも「リゴレット」第3幕の最後でリゴレットが復讐を遂げたと喜びに震えているその裏で、マントヴァ公爵の「風に踊る羽のように」という有名なカンツォーネ「女心の歌」が歌われますが、あの残酷なまでに劇的な場面を思い出したからです。
第一幕は不摂生を続けるヴィオレッタがアルフレードの純真な愛に目覚めるまでなので、ヴィオレッタのことばかり書いてしまいましたが、最初の宴の場面で歌われる、これまた有名すぎる「乾杯の歌」も実においしく、第一幕を聴いただけで、今日はおなかいっぱいというところです。
作品について
ちょっと付け加えると、ご存知のように「椿姫」とはアレクサンドル・デュマ・フィスの小説に基づいて作られたものです。「椿姫」はヴェルディによって「La Traviata」と改題されましたが、それは「道を踏み外した女、堕落した女」という意味です。原作でヴィオレッタは高級娼婦マルグリットとして表現されています。アルフレードは娼婦に純粋無垢な愛情を注ぐ青年アルマンです。ヴェルディの「椿姫」においては、ヴィオレッタが貴族を相手にした高級娼婦であるとは、リチャード・エアの演出からは感じ取ることができませんが、彼女の苦悩や「友人も家族もなく独りパリに捨てられた」薄幸の身の上や、愛を捨てた過去については、説明がなければ納得がいかないと感じたものです。だからといって高級娼婦という役割を与えるのも酷すぎる気もしますが、いずれにしても貴族の財力を当てにしたパトロンなしには生きていけない女性ではあるのかもしれません。
作品の背景
椿姫について、ネットで調べていたら、これ以上短い紹介はないというくらいの名文に出会いました。OperaGlassというサイトの「椿姫」のページですが、そこには以下のようにあります。Setting: Paris and environs, around 1700.これによると、ヴィオレッタは「消耗的な売春婦」ですか。売春婦と息子がデキてしまったのですから、父親としても「家の名誉」のために躍起になるのは当然ですね。そして第3幕は「ヴィオレッタ死す」ですか。いやはや、正しいけれど実も蓋もありませんね、これでは(笑)
Plot Summary
Act I
Violetta, a consumptive courtesan, falls in love with Alfredo.
Act II
Scene 1: Alfredo's father convinces Violetta that she must leave him for the honor of the family.
Scene 2: Alfredo publicly insults Violetta at a party. The guests are shocked.
Act III
Violetta dies.
作品の時代ですが、ヴェルディの原譜には時代指定がなかったそうです。その後、初版の楽譜がリコルディから出版された時に「1700年頃」と指定を書き換えたそうです。一方、デュマ・フィスの原作も、リチャード・エア演出の本上演も時代は1840年頃パリとなっています。現在の上映においてはデュマ・フィスの小説と同じ19世紀中葉とすることが多いようで、1964年版のリコルディ社のピアノ総譜でも「1850年頃」とされているのだそうです(DVD解説より)。
さきに紹介したサイトには歌劇のPicture Cardsも紹介されております。上は第1幕のものですが、コメント(英語しか読めず)によると、この絵の設定は1700年頃、それは20世紀初期までのイタリア舞台における一般的な選択であったのですとか。それにしても、文学も音痴な上に世間知らずなのでよく分からないのですが、パリの高級娼婦というのは、こういう生活環境だったのですか。
あと、オペラの概略を知る上では欠かせないのが、音楽よもやま話というサイトですが、椿姫についても詳しくMIDI音源付きで説明してくれていて助かります。興味のある方はそちらをご覧になられるのがよろしいかと。
第2幕 第1場
さて、この場面はアルフレードの父親ジェルモンがヴィオレッタに息子と別れることを懇願する場面です。ここも名曲のオンパレードの様相を呈していますが、レオ・ヌッチの演じるジェルモンが良いですね。ジェルモンの"Piangi, o misera, piangi!"(お泣きなさい、不幸な人、お泣きなさい)と繰り返すフレーズがアタマに付いて離れてくれません。自分で泣かせておいて「お泣きなさい」もないものだとか、息子と別れろとは"E Dio che ispira, o giovine, Tai detti a un genitor."(神様のおぼしめしです、若いお方よ、ひとりの父親にこんな言葉を言わせるは)なんて、白々しくもよく言うよとか思うのですが、まあ感動的な場面です。ジェルモンのアリアは「天使のように清らかな娘」とか「プロヴァンスの海と陸」とか、聴き所が多いのですが、私は"Un di, quanto le veneri, Il tempo avra fugate, Fia presto il tedio a sorgere..."(いつの日か、時が魅力を失わせ、すぐにあきがきたら・・・)と、老獪さを露にヴィオレッタを説得するアリアが好きですね。また、ここでのヌッチの表情がいかにも「お若い娘さんよ、よくお聞きなさい」的で抜群です。しかも、独特のフシ回しで歌うところが、ワーグナーの「マイスタージンガー」に出てくるヴェックメッサーの嫌らしさを彷彿とさせるのですよね。こういう歌い方は何というのでしょう。
このように第2幕 第1場は一見すると第1幕ほど華やかではないのですが、観れば観るほど惹かれる場面です。一番好きなのは、アルフレードとヴィオレッタの別れのシーンです。ヴィオレッタが次のように歌う場面は、何度見ても涙が出ます。
Lo vedi? Ti sorrido...(わかるわね?・・・笑っているでしょ・・・)
Saro la, tra quei fior,(ここにいるわ、あの花と一緒に、)
Presso a te sempre.(いつまでもあなたのそばに)
Amami, Alfredo,(私を愛してね、アルフレード)
Amami quant'io t'amo!(私があなたを愛しているとおなじだけ!)
Addio!(さようなら)
高級娼婦 クルティザンヌ
昨日、無知無学にも「パリの高級娼婦というのは、こういう生活環境だったのですか」などと書きましたが、高級娼婦というのはどういうものなのか、格好の本がありましたので立ち読みをしてきました。(「椿姫とは誰か―オペラでたどる高級娼婦の文化史」)
これによると高級娼婦クルティザンヌ(courtesan)は、一般的な売春婦とは一線を画した存在であったそうです。当時のパリは経済的に豊かになり、貴族階級が快楽的な生活を求めることと、キリスト教に根を持つ性的なタブーから解放されたことなどが重なり、クルティザンヌという存在を生んだのだと説明しています。
「椿姫」のヒロインのヴィオレッタも、アルフレードとの純愛物語と捉えると、まったくその背景や本質を見失うことになってしまいそうです。ヴィオレッタがパリにおいて「友人も家族もなく孤独である」身の上でありながら、貴族たちに対し朝までの宴会を供したり、若い純真なアルフレードを「囲う」ほどの財力を持っていたことなども、当時のクルティザンヌの生活や財力の一端なのでしょう。アルフレードは南フランスはプロヴァンス出身ですから、パリから見たら「田舎の貧乏な若者」という存在だったのかもしれません。
また、彼女が第一幕で、どうしてあれほどに自暴自棄に快楽の世界を求めるのか、そしてアルフレードの愛を何故受け入れようとしなかったのかも、クルティザンヌの持つ苦悩とあわせて考えなくては理解できないものとなります。第ニ幕でヴィオレッタがアルフレードのために全財産を投げ打つことで、過去の罪を清算しようとする気持ちも、彼女がクルティザンヌでなければ理解できないわけです。
しかし驚くべきはクルティザンヌという存在です。下はリアーヌ・ド・プージィという高級娼婦だそうです。この本は行きつけの書店にありませんでしたので内容を確認できませんでしたが、本の紹介には以下のようにあります。
ベル・エポック最高の美女。プルースト、コレット、コクトーが競ってモデルとした社交界の女王にして、パリ・レスボス界の女神。
- 高級娼婦リアーヌ・ド・プージィ ジャン・シャロン (著), 小早川 捷子
表紙の写真を見るだけで、日本人の私がイメージする娼婦とは全然趣が異なっていてびっくりです。日本にも吉原の遊女がおったそうですが、身分などは全然違うものでしょう。実際、当時のパリにおいてはクルティザンヌは蔑視されていたわけでは全くなく、人気のクルティザンヌのブロマイドやイラストなどに人気が集まっていたのだそうです。そしてクルティザンヌはそれこそ貴族婦人とほとんど変わらない生活をしていたのだそうです。
当時のパリは貧富の差が激しかったようですから、無教養な若い女性を社交界でも通用するような教養や身だしなみをつけさせて育てるようなことも、貴族の中では甲斐性みたいなものだったのでしょうか。だから、クルティザンヌであるヴィオレッタは、単なる娼婦のようにお金を出せば売買春ができると言うような存在ではなく、アルフレードが「一年以上も前から慕っていた」という、ほとんど高嶺の花であったことが分かります。ここらあたりを理解しなければ、アルフレードの父ジェルモンの態度も、その後のアルフレードの屈辱も理解できないものだと思い知りました。
しかし、こういうことはDVDの福原信夫氏の解説からは全く読み取ることができず、例えばデュマ・フィスの「椿姫」の主人公であるマリー・デュプレシスについても『
ということで、第2幕 第2場を観てみることとしましょう。
貴族達の宴会の豪華さを語る意味合いや、スペインなどの文化をも飲み込んでいた時代性を表しているのでしょうか。1800年代のフランスといえばナポレオンがヨーロッパ各地に遠征した後の時代、1850年頃であればナポレオン三世の統治下、パリにオペラ座ができたのも1862年ですからまさに文化の爛熟期と言えるかもしれません。
ヴェルディは1813年北イタリアの生まれですが、アルプスの北では同じ年に偉大なる(笑)ワーグナーが生まれいます。ドイツ国民に深く共感を感じさせるワーグナーの楽劇は、フランスを舞台としたヴェルディの歌劇に比べると、設定に洗練さはなく、むしろ田舎くささを感じますが、そういう意味からもフランスはヨーロッパ文化の中心だったのかなと思ったりします。(ここらへんは歴史にも詳しくないので何とも言えませんが)
ジブシー占いが「過去の過ぎ去ったことは忘れ、未来にこそご用心」と歌うことに、「椿姫」のもつ悲劇性を暗示させているとも取ることができます。本当に用心しなくてはいけないのは、フローラではなくアルフレードだったのにね。もっとも裏読みするよりは、「アイーダ」でもそうでしたが、凱旋の行進の後に異国情緒溢れるバレエのシーンがありますが、ああいった軽い余興的な意味合いであると考えても良いのかもしれません。
20分程の短い場ですが、ここでジェルモンはヴィオレッタを辱めるという、若さならではの直情的な行動に出てしまいます。どうも私は気になって仕方がないのですが、ワーグナーのオペラにしてもヴェルディの他の作品にしても、男性が女性に比べると「子供じみて」見えるのは何故でしょうか。
男性も愛を語るのですが、何か白々しいというか、若さだけで突っ走るような脆さや青さを感じてしまいます。それに対し、ヴィオレッタの愛は献身的でありそして自己犠牲的で感動的です。男性など、女性の包容力の前では赤子も同然のような存在です。女性の献身的な愛など全く理解できないのですからね。
従って、この場面でもやはりヴィオレッタが光ってしまいます。良くも悪くも、プリマ・ドンナ・オペラなのです。アルフレードが賭けでドゥフォール男爵から巻上げたチップをヴィオレッタ投げつけた後に歌われる、"Alfredo, di questo core, Non puoi comprendere tutto l'amore"(アルフレード、この心の愛のすべてをわかっては下さらないのね)というアリアは、美しくも心を打ちます。
にしても、3ヶ月にも渡る愛の生活の原資にさえ思い至らず、甘い生活を続けていたのですから、アルフレードは田舎のお坊ちゃんといえるわけで、到底、海千の喜びも哀しみも経験したクルティザンヌであるヴィオレッタのお相手ではなかったのでしょうか。
というわけで、いよいよ怒涛の悲劇のクライマックスである第三幕に突入します。
ヴィオレッタも病人姿ですから、かつての艶やかだった髪も下ろし、唇の色も青ざめ、眼は落ち窪み、なかなかに凄みのあるメイクです。舞台映像を観ながら、色彩感覚的にはムンクの「病める子」の絵を思い浮かべてしまいました。
ひしひしと迫る死に向かい、大きな悲劇を歌うのですが、それでもやはり、オペラ名曲のオンパレードといったところで、聴いていて飽きません。ヴィオレッタが手紙を読むシーンから「さようなら、過ぎ去った日々よ」のアリアなども涙なしには聴けません。アルフレードが現れてからの彼女の歓びと、そして遅すぎた時に対する無念さのを"Gran Dio! morir si giovine, Io che penato ho tanto!"(神様!こんなに若いのに死ななければならないの、これほど苦しみぬいた私は!)と歌うところは、血を吐くような壮絶さです。
それに対し、アルフレードの方は、ヴィオレッタの心を理解し病の床に遅ればせながら駆けつけてから、愛の二重唱を歌うのですが、イタリアのテノールアリアは悲しみを誘いませんね、非常に健康的にしか聴こえないのですが・・・偏見かもしれませんが(笑)
アルフレードには「パリを離れて」という美しいアリアもあるのですが(ここは本当に上手いですね)、それでもこのオペラは全編通してヴィオレッタが主人公で、それ以外は全て刺身のツマなんだと思います。2時間以上に渡ってヴィオレタを演じきるというのは、なかなか至難の業なのではないかと思います。これだけ人気があって有名なオペラではあるものの、歌唱力はもちろん、心理表現から演技まで並大抵の技量ではつとまるものではありません。
ラストでヴィオレッタが、"E strano! Cessarono Gli spasimi del dolore!"(不思議だわ!苦しみのけいれんが なくなりましたわ!)と歌って、息絶えるシーンも鬼気迫る演技です。バックはヴァオイリンによる、ジェルモンからの手紙を読んだシーンの旋律です。この、観るものの一瞬の期待を裏切る劇的にして残酷なラストを初めて観たときはもはや声になりませんでした。
確かにアリアの音型なども高音域から低音域に下降するものが多いようです。また、華やかな社交界(ドゥミ・モンド)から田舎暮らし、そして病気による死と人生においても下降線を歩みます。これをワーグナーの《トリスタン》と比較して次のように書いている部分は注目に値します。
下行音楽という点では、Classic Airというオペラ紹介個人サイトで見つけた井形ちづる氏(東京藝術大学大学院オペラ科教員)の文章も参考になりますので引用しておきましょう。第三幕の前奏曲に関する考察です。
もっとも、ヴォイレッタは指摘のとおり死に向かって下行するものであるかもしれませんが、精神的にはクルティザンヌという立場から、自己犠牲と病気による受動的な死へと至るわけで、見方によっては果てしなき高みに上ってゆく物語でもありように思えます。彼女もアルフレードへの無抵抗にして献身的な愛を捧げることで逆に救われているのでしょうか。彼女のクルティザンヌとしての暗い過去は最後の彼女に与えられたつかの間にして偽りの回復と死によってつぐなわれたと私は考えます。
女性の自己犠牲といえばワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデとか「タンホイザー」のエリーザベトを思い浮かべてしまいます。どちらの女性も最後には聖変化とも言える様な気高さを感じてしまうのですが、エリーザベトもイゾルデも非常に能動的な死の衝動に駆られての自己犠牲である点を思い出したとき、先のシュトゥップナーの言葉とあわせてヴィオレッタを考えれば、非常に対照的であることに気付かされます。ヴィオレッタは、あくまでも最後まで生に拘っていたのですから。
それにしても、最後まで分からないのは、いったいぜんたい、アルフレードのどこにヴィオレッタは惚れてしまったのでしょう。ドゥミ・モンドで初めて会ったアルフレード、彼女は表向きには「享楽の世界」を歌いながらも、そんな世界に空しさを感じていたからこそ、純粋無垢なアルフレードの言葉に救いを求めたのでしょうか。彼女は「普通の女性」からみればクルティザンヌという立場で「堕落した女」でありましたが、逆にクルティザンヌでありながら「恋に生きる女性」を求めたという意味においても、明らかに「道を踏み外した女」であったのだなと思ったのでした。
とにかく他の演奏を聴いたことがないので、ショルティの演奏が良いとか、リチャード・エアの演出がどうだとかを書くことはできません。しかし、初めて「椿姫」に接すると言う意味では、全く正統的な演出であり、歌手人を含めて申し分ないと思います。こうして延べ数日に渡って繰り返し聴き続けても、一向に飽きることがありませんでしたからね。
しかし、こういうことはDVDの福原信夫氏の解説からは全く読み取ることができず、例えばデュマ・フィスの「椿姫」の主人公であるマリー・デュプレシスについても『
七人もの百万長者をパトロンとしている女』という紹介だけに留めています。まあ私が無知なだけで、世界三大オペラ?のひとつなのですから、そんなこと周知の事実なのでしょう。
ということで、第2幕 第2場を観てみることとしましょう。
第2幕 第2場
第2場はフローラ邸での華やかな夜会です。ここで挿入されるジプシーや闘牛士の合唱は、全体のストーリーからすると、観るたびに違和感を感じないわけではありません。貴族達の宴会の豪華さを語る意味合いや、スペインなどの文化をも飲み込んでいた時代性を表しているのでしょうか。1800年代のフランスといえばナポレオンがヨーロッパ各地に遠征した後の時代、1850年頃であればナポレオン三世の統治下、パリにオペラ座ができたのも1862年ですからまさに文化の爛熟期と言えるかもしれません。
ヴェルディは1813年北イタリアの生まれですが、アルプスの北では同じ年に偉大なる(笑)ワーグナーが生まれいます。ドイツ国民に深く共感を感じさせるワーグナーの楽劇は、フランスを舞台としたヴェルディの歌劇に比べると、設定に洗練さはなく、むしろ田舎くささを感じますが、そういう意味からもフランスはヨーロッパ文化の中心だったのかなと思ったりします。(ここらへんは歴史にも詳しくないので何とも言えませんが)
ジブシー占いが「過去の過ぎ去ったことは忘れ、未来にこそご用心」と歌うことに、「椿姫」のもつ悲劇性を暗示させているとも取ることができます。本当に用心しなくてはいけないのは、フローラではなくアルフレードだったのにね。もっとも裏読みするよりは、「アイーダ」でもそうでしたが、凱旋の行進の後に異国情緒溢れるバレエのシーンがありますが、ああいった軽い余興的な意味合いであると考えても良いのかもしれません。
20分程の短い場ですが、ここでジェルモンはヴィオレッタを辱めるという、若さならではの直情的な行動に出てしまいます。どうも私は気になって仕方がないのですが、ワーグナーのオペラにしてもヴェルディの他の作品にしても、男性が女性に比べると「子供じみて」見えるのは何故でしょうか。
男性も愛を語るのですが、何か白々しいというか、若さだけで突っ走るような脆さや青さを感じてしまいます。それに対し、ヴィオレッタの愛は献身的でありそして自己犠牲的で感動的です。男性など、女性の包容力の前では赤子も同然のような存在です。女性の献身的な愛など全く理解できないのですからね。
従って、この場面でもやはりヴィオレッタが光ってしまいます。良くも悪くも、プリマ・ドンナ・オペラなのです。アルフレードが賭けでドゥフォール男爵から巻上げたチップをヴィオレッタ投げつけた後に歌われる、"Alfredo, di questo core, Non puoi comprendere tutto l'amore"(アルフレード、この心の愛のすべてをわかっては下さらないのね)というアリアは、美しくも心を打ちます。
にしても、3ヶ月にも渡る愛の生活の原資にさえ思い至らず、甘い生活を続けていたのですから、アルフレードは田舎のお坊ちゃんといえるわけで、到底、海千の喜びも哀しみも経験したクルティザンヌであるヴィオレッタのお相手ではなかったのでしょうか。
というわけで、いよいよ怒涛の悲劇のクライマックスである第三幕に突入します。
第3幕
第三幕は第一幕の冒頭で聴かれた前奏曲から幕は始まりますが、もはや音楽にも舞台にも華やかさはどこにもありません。というか、前奏曲が第三幕の暗示なんですよね。ヴィオレッタも病人姿ですから、かつての艶やかだった髪も下ろし、唇の色も青ざめ、眼は落ち窪み、なかなかに凄みのあるメイクです。舞台映像を観ながら、色彩感覚的にはムンクの「病める子」の絵を思い浮かべてしまいました。
ひしひしと迫る死に向かい、大きな悲劇を歌うのですが、それでもやはり、オペラ名曲のオンパレードといったところで、聴いていて飽きません。ヴィオレッタが手紙を読むシーンから「さようなら、過ぎ去った日々よ」のアリアなども涙なしには聴けません。アルフレードが現れてからの彼女の歓びと、そして遅すぎた時に対する無念さのを"Gran Dio! morir si giovine, Io che penato ho tanto!"(神様!こんなに若いのに死ななければならないの、これほど苦しみぬいた私は!)と歌うところは、血を吐くような壮絶さです。
それに対し、アルフレードの方は、ヴィオレッタの心を理解し病の床に遅ればせながら駆けつけてから、愛の二重唱を歌うのですが、イタリアのテノールアリアは悲しみを誘いませんね、非常に健康的にしか聴こえないのですが・・・偏見かもしれませんが(笑)
アルフレードには「パリを離れて」という美しいアリアもあるのですが(ここは本当に上手いですね)、それでもこのオペラは全編通してヴィオレッタが主人公で、それ以外は全て刺身のツマなんだと思います。2時間以上に渡ってヴィオレタを演じきるというのは、なかなか至難の業なのではないかと思います。これだけ人気があって有名なオペラではあるものの、歌唱力はもちろん、心理表現から演技まで並大抵の技量ではつとまるものではありません。
ラストでヴィオレッタが、"E strano! Cessarono Gli spasimi del dolore!"(不思議だわ!苦しみのけいれんが なくなりましたわ!)と歌って、息絶えるシーンも鬼気迫る演技です。バックはヴァオイリンによる、ジェルモンからの手紙を読んだシーンの旋律です。この、観るものの一瞬の期待を裏切る劇的にして残酷なラストを初めて観たときはもはや声になりませんでした。
あきらめのオペラと下行の音楽
フーベルト・シュトゥップナーは、『《椿姫》は本質においてあきらめのオペラである』と書いています。そして『
彼女(ヴィオレッタ)を特徴づけているのは下行の法則である』として、ヴィオレッタの「受動性」を指摘し、さらにヴィオレッタのいくつかの主要モティーフもすべて力なく下行していることを指摘しています。これを読んだときには成る程なと思ったものです。
確かにアリアの音型なども高音域から低音域に下降するものが多いようです。また、華やかな社交界(ドゥミ・モンド)から田舎暮らし、そして病気による死と人生においても下降線を歩みます。これをワーグナーの《トリスタン》と比較して次のように書いている部分は注目に値します。
《トリスタン》では力づくで作為的に興奮させられた激昂の幻影であり、自然力を死の中に放置するかわりにふるいたたせ興奮させる享楽と生命の原則にしたがって、飽くことを知らずに半音階的上昇を続けていく。屍姦的傾向を備えた《トリスタン》の神秘性に比べると、《椿姫》の死の音楽はむしろ生への憧れが強く感じられる。(名作オペラブックス2「椿姫」P.269)『
屍姦的傾向を備えた《トリスタン》』という表現は爆笑ものですが、確かに半音階的上昇と全音階的下降では後者の方が健康的には聴こえますね。
下行音楽という点では、Classic Airというオペラ紹介個人サイトで見つけた井形ちづる氏(東京藝術大学大学院オペラ科教員)の文章も参考になりますので引用しておきましょう。第三幕の前奏曲に関する考察です。
3幕での前奏曲はヴィオレッタの死を象徴する崇高で哀しいほどに透き通った高音の弦の響きが印象的で、(中略)『椿姫』が諦めのオペラとも呼ばれる要因にもなる常に現れる下降音型がここでも支配的である。井形ちづる氏はこれを「這い上がるように音が上がっても、それはずるずると下降してしまう。アルフレードからの手紙、そして彼が戻ってくるのをひたすら待ち続けるヴィオレッタ。アルフレードに会いたい。そのためには生きていなければ。どんなに生きたいと願ったであろう。(後略)」とヴィオレッタの必死の這い上がる姿とこの死を意味する残酷な下降音型の関係を述べ、「前奏曲の最後の6小節は、息も絶え絶えになるヴィオレッタを描写し、最後の3小節にわたる長いトリルの後 の最終音はまさにヴィオレッタの事切れる瞬間」と指摘している(《ラ・トラヴィアータ》の2つの前奏曲)。なるほど、こういう文に出会うと聴くたびに(まだ聴いてるのかよ)感興が変わってきますね。
もっとも、ヴォイレッタは指摘のとおり死に向かって下行するものであるかもしれませんが、精神的にはクルティザンヌという立場から、自己犠牲と病気による受動的な死へと至るわけで、見方によっては果てしなき高みに上ってゆく物語でもありように思えます。彼女もアルフレードへの無抵抗にして献身的な愛を捧げることで逆に救われているのでしょうか。彼女のクルティザンヌとしての暗い過去は最後の彼女に与えられたつかの間にして偽りの回復と死によってつぐなわれたと私は考えます。
女性の自己犠牲といえばワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデとか「タンホイザー」のエリーザベトを思い浮かべてしまいます。どちらの女性も最後には聖変化とも言える様な気高さを感じてしまうのですが、エリーザベトもイゾルデも非常に能動的な死の衝動に駆られての自己犠牲である点を思い出したとき、先のシュトゥップナーの言葉とあわせてヴィオレッタを考えれば、非常に対照的であることに気付かされます。ヴィオレッタは、あくまでも最後まで生に拘っていたのですから。
それにしても、最後まで分からないのは、いったいぜんたい、アルフレードのどこにヴィオレッタは惚れてしまったのでしょう。ドゥミ・モンドで初めて会ったアルフレード、彼女は表向きには「享楽の世界」を歌いながらも、そんな世界に空しさを感じていたからこそ、純粋無垢なアルフレードの言葉に救いを求めたのでしょうか。彼女は「普通の女性」からみればクルティザンヌという立場で「堕落した女」でありましたが、逆にクルティザンヌでありながら「恋に生きる女性」を求めたという意味においても、明らかに「道を踏み外した女」であったのだなと思ったのでした。
演奏について
この演奏は、1994年、ショルティ82歳のときの公演で、かの巨匠にとって「椿姫」初録音であったそうです。指揮ぶりや最後のカーテンコールの姿を見ていると、その3年後に亡くなってしまうとは到底思えない若々しさです。とにかく他の演奏を聴いたことがないので、ショルティの演奏が良いとか、リチャード・エアの演出がどうだとかを書くことはできません。しかし、初めて「椿姫」に接すると言う意味では、全く正統的な演出であり、歌手人を含めて申し分ないと思います。こうして延べ数日に渡って繰り返し聴き続けても、一向に飽きることがありませんでしたからね。