- ローマの噴水
- ローマの松
- ローマの祭
- スヴェトラーノフ(指揮) USSR State so.
- Live at the Great Hall of the Moscow State 1980.2.30 Scribendum SC021
許光俊が「オレのクラシック」で残酷と野蛮と官能の恐るべき『ローマの祭り』
としてベタ褒めの盤であります。
残酷と野蛮と官能の限りを尽くした音の酒池肉林と言うしかないこの演奏は、クラシック史上に残る名作である。これを聴かないでスヴェトラーノフを、いやオーケストラ演奏を語ることができないのは間違いないところだ。
とまで書いています。そうか、私は今までオーケストラ演奏を語る資格さえなかったのかとフカク反省し聴いてみたのですが、爆演であることは認めるものの許氏のような手放しの絶賛を与えることができません。
というのも、この演奏はチンケな再生装置で聴いてはダメですね。再生装置の処理限界を超えるのでしょうか、音の塊はダンゴ状態となって耳にぶち当たって砕けるだけ。金管の音(特にペットとかも)もどこか貧相に聴こえてしまう・・・。やはりホールでこの爆発的な音塊を全身で受け止めなくては、おそらくはこの演奏の真価を語ることはできないのだろうと、再びフカク悟ってしまいました。(>どんな演奏でもそうなのでしょうが)
それでもとりあえず気付いた事をメモしてきますしょう。「ローマの噴水」は爆演という点からはイマひとつ、繰り返して聴くほどの演奏とは思えず。しかし「ローマの松」の「カタコンブ付近の松」は低弦の支えの分厚さは凄く壮大な音楽を聴かせてくれます。金管は限界近くまで咆哮します。一方「ジャニコロの松」のような静かなところになると、ソロのまずさが耳に付く。抒情という点でもあまりイタリア的感傷は感じない。「アッピア街道の松」はさすがに凄まじいカタストロフを演出している。最初の出だしの重さと暗さは尋常ではない。ロシア陸軍が凍土を黙々と行進しているよう。しかし最後はモスクワかどこかに凱旋しているような歓喜の爆発。オーボエとかのソロはやっぱりちょっと粗削りでイマイチだが打楽器の迫力は聴きモノ。全体のバランスとしては粗さを怒涛の迫力が飲み込んでいる、ラストの終わり方も凄い。ハマれば思考停止になることは間違いない演奏。
「ローマの祭り」は、一体全体どうしたらこんな演奏が可能なのか。「チルチェンセス」は暴君ネロの祭り。この暴虐の限り、殉教者の祈りを全て斬り裂くかのような音楽には驚く限り。スヴェトラーノフはオケの多少の(多少か?)破綻は無視し、ホール全体に(おそらく)鮮血の霧を撒き散らしているかのよう。底抜けに明るいハズのナヴォナ広場の「主顕祭」も力瘤入りまくりの鉄のダンス。グロテスクさと諧謔性、え、あれ、こんな曲だったっけ。ラストに至っては空いた口がふさがらない。許氏の耳にどうしてこれが「官能」と聴こえるのか、私の感性とは違うという他ないが(>再生装置が違うんだってば)、ひとつの極地の演奏であることは認める。
褒めているんだかケナしているんだか分からない感想になってしまったが、ストレス解消になる演奏でもあるので、「アッピア街道の松」と「主顕祭」はi-Podに入れておくか(笑)
と、ここまで書いて、以前にもレビュウしていることに気づいた、何てこった!
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