レクイエムとありますが、1955年に早世した作曲家・早坂文雄氏を追悼しつつ描いた曲とされています。あるいは当時武満氏は結核を患っており自らに対するレクイエムであったとする解説も目にしたことがあります。一方この曲で武満氏が特定の誰かを追悼するという意図はないとする文章も何かで読みました。
そういう事情はさておき、それであっても、この曲は限りなく哀しく、限りなく美しいことに驚かされます。
弦のみによって奏でられる響きは重く荘厳です。最初は美しい響きだけど何だか暗いなあくらいに思っていたのですが、何度か聴いていると曲の底に潜んでいる圧倒的な慟哭に気付かされます。声を上げて泣いているのではない、涙を流して泣いているのではない。そういう表層的な感情表出ではなく、心の深いところが存在を脅かされる恐怖とともに震えている。
しかしそれは、早坂氏追悼ということを知った上で想起された聴き手の感情かも知れず。そういう予備知識を抜きに聴いたとしても言い知れぬ深い哀しさは伝わってくるようです。
はじまりもおわりも定かではない、人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れる部分を、偶然に取り出したものだと云ったら、この作品を端的にあかしたことになります。
と武満氏は東京交響楽団の機関誌に書きました。彼の音楽に対する考え方を示す意味で興味深い文章です。武満氏は「哀しみの感情」などを音楽に持ち込んだつもりなどなかったのかもしれません。音楽を聴く者は、いかようにでもして自らの文脈の中に当てはめずには理解できないのでしょうか、困ったものです。
この曲を評してストラヴィンスキーがこの音楽はじつに厳しい、まったく厳しい
と語ったとされており、それが武満氏の評価を高めるきっかけになりました。「厳しい」というのをストラヴィンスキーがどのような意味と文脈で語ったのかは分かりません。この曲が一点の虚飾もない非常なる高みに到達していることだけは確かであると思います。
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