ユダヤ人を徹底的に排除(抹殺)しようとしたヒトラーが、ワーグナーの音楽をこよなく愛したという事実を(特に、《マイスタージンガー》はことさらお気に入りだったようだ。そもそもニュルンベルクそのものがヒトラーと結びついている)作品と合わせて考えると複雑な気持になるものだ。イスラエルにおいて長らくワーグナーの作品が上演禁止であったこと、2001年7月7日にイスラエル・フェスティバルに客演していたバレンボイム率いるベルリン・シュターツカペレが《トリスタンとイゾルデ》の一部ををアンコールに演奏し話題(スキャンダル)になったことも記憶に新しい。
我々のように島国に住む者にとっては、ユダヤ人差別、ユダヤ人蔑視という感情を、知識として理解はしても実感としては納得できないものだ。「ベニスの商人」のシャイロックはあまりにも有名だが、西欧人がユダヤ人を蔑視する理由のひとつに、実は彼らの優秀さへの裏返しがあるのではないかと思うこともある。
以上のことを踏まえた上でだが、作品鑑賞上ベックメッサーにユダヤ人の隠喩を嗅ぎ取るか必要があるかどうかについては論が分かれるように思う。実際、ベックメッサーは、最初からかわいそうな役どころとして登場している。第1幕においても、いつも苛立ち、怒っている。ヴァルターの才能に嫉妬し、古い因習を振りかざして新しい芸術を理解しない野暮な男として描かれている。第2、3幕となると更に悲惨な書かれ方をするのだが・・・。ワーグナーと敵対する音楽評論家のカリカチュアライズであったとしても、辛辣すぎるという気がしないでもない。
ワーグナーの意地の悪さというのはかなり徹底しており、一見善良そうなザックスについても、彼の陰謀と策略の陰湿さが気にかかるようになる。これらを「喜劇」として笑えるかどうかは、ドイツ的心情の有無により決まるようにも思える。
ドイツ的心情とはニーチェの言葉を引用するとよく雰囲気が分かると思う。
「人がよくて、悪賢い」この二つの性格が併存することは、他の全ての民族では矛盾であるが、ドイツにおいてはしばしば正当化されてしまう。(中略)ドイツ人は「率直さ」「愚直さ」を愛する。率直であり、愚直であることはなんと快いことか。ドイツ的実直さの人なつっこさ、親切、あけっぴろげなところ、これは今日ではひょっとすると、ドイツ人が心得ている最も危険で最も幸福な仮装であるかも知れない。この仮装はドイツ的メフィストフェレスの技巧であって、これによって彼らは「もっと成功する」こともできるのだ。
ニーチェ 『善悪の彼岸』
このような視座から《マイスタージンガー》を聴くならば、単純なる明朗な喜劇とばかりには響いてはこないものである。予備知識や薀蓄の弊害と言えようか。
(*2)「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」エドワード・W・サイード
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