冒頭のテーマを聴いて、意外の念に捕われた。今まで聴いたことがない響きにだ。「ダダダ、ダーン」が何と即物的に響くことか。まるで、とって付けたようと言っては的を得ていないかもしれない。聴こえてきたのは、ベートーベンの苦悩でも運命の扉を叩く音でもなく、「ダダダ、ダーン」という音響そのものであった。テーマ続いて奏でられる裏での弦の刻み、あるいはホルンの吹奏の響きも何とあざとらしくイヤらしいことか。
許氏はこの演奏を「ちょっと信じ難い演奏」(「世界最高のクラシック」P.195)と評していた。私はこの文章に接したとき、許が何を言っているのか分からなかった。しかし、フルトヴェングラーとケーゲルの演奏を聴いた後、チェリビダッケの1楽章冒頭に続けて接したとき、この演奏の異様さがおぼろげながら分かったような気がした。
許氏は書く。「普通音楽を聴く者が求める感動だとか興奮だとか高揚というものから遠い。チェリビダッケは、人を興奮させる演説がどのように書かれているか、どのような仕組みでできているかを指摘している」(同書 P.196) 何とフルヴェングラーやケーゲルの演奏と対極にある演奏であることか。チェリはここに、剥き出しの感情を込めてはいないようだ。
ではつまらない演奏なのかといえば、決してそうではない。堂々としている、演奏されているのはベートーベンの風格そのものだ、まさに横綱相撲。たとえば第2楽章の骨格の太さと構造的な頑丈さときたらどうだ。どこに隙があろうかと言っているかのようだ。だから、ケーゲルで聴こえたような感情の振幅はない。
第四楽章も極めて遅く奏される。C.クライバーの演奏を思い出すまでもなく、滑稽なほどに遅い、止まってしまうのではないかという気にさえなる。しかし、実際は音楽は全く停滞していないのである。遅いテンポの中に音の履歴が積み厚く積み重ねられ、次第に音楽という構築物が姿を成して行く様を見せ付けられる、いや聴かされる。
苦悩から歓喜へと至る部分も極めて、音楽的に骨格が明確だ。音と音の対比がはっきりしている。リズムの効果が示される、音の積み重ねが手に取るように聴こえる。それでいて、いやそれだからか、ベートーベンを聴く分厚い満足を得ることができる。今まで聴いたどのベートーベンとも違う、そして紛れもないベートーベンがここにはある。彼の肖像を見るがごときだ。素晴らしい演奏であると感嘆止まない思いだ。
彼が音楽において調和を重視したということも分からないでもない。あそこの音が素晴らしい、ここのテンポが良いというのは瑣末的な指摘に過ぎない。絵画において、一部分のタッチが軽妙だと言っているに等しい。全ての音楽を聴き終わった後に聴衆に残される全体像、そこに時間芸術としての音楽観があったのかもしれない。だから彼は、スピードと勢いで音楽を表現するようなやり方も拒んだのかもしれない。
いや、そうなのだ。演奏にやたら感情を込めた激情型の演奏がすばらしいと、私は思いすぎているのではなかったろうか。「演奏家の個人的解釈に価値を見出す」ということに対し、チェリビダッケは否定的であったのではなかったか。
ここらへんで止めておこう、というかここまでだ。私にはまだチェリビダッケの音楽を語るほどの語彙が不足している。交響曲第4番のレビュはまた機会があれば。
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