場所:サントリーホール
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
チェロ:エンリコ・ディンド
演奏:東京交響楽団
プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47
「社会主義リアリズムへの苦悩」という主題に選ばれた曲は、1952年に初演されたプロコフィエフの交響的協奏曲と1937年初演のショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。
チェロ協奏曲の別名のあるプロコフィエフの曲は、3楽章形式で40分にもわたる大曲である。いったいクラシックサイトを運営していながら、どういうつもりなのかと思うかもしれないが、プロコのこの曲は始めて聴く。しかし聴き始めてすぐに曲の面白さに魅せられ、演奏時間の40分は、それこそあっという間に過ぎ去ってしまった。
解説によれば「皮肉なニュアンスをもった平明さと、抒情性やどぎついリズムなどによって、独特のコントラストが実現」とある、よくも端的にまとめてくれるものだ。聴いてまず驚いたのが、チェロという楽器の運動性能である。高音域から低音域までを余すことなく使って表現される独奏チェロは、この楽器のもつイメージを少し超えたものさえ感じた。チェロの音から他の楽器へとつながる音の連続性も面白い。
第2楽章アレグロ・ジュストにおいて叙情的な第二主題をチェロが奏るのだが、この優雅さは幻だろうかと薄氷を踏むような思いがよぎる。あるいは第3楽章の冒頭の主和音の強烈な響きは、一瞬何かのパロディであろうかと、思わず深読みしそうな意味を感じてしまう。音楽は多彩な変化を示し、ラストへ向けて強烈なリズムと弦の性急な刻みにのったチェロは、狂気と紙一重のような音楽を作り出している。
このように一瞬たりとも聴き逃すことができない、めまぐるしい音楽を聴かせてくれた。チェリストはそれこそ全身を使ってボウを弾きまわす。思い出してみると私の目と耳は、40分もの間チェリストに釘付けになっていたようだ。
プロコフィエフが終了した後、ディンド氏はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番サラバンドを演奏した。このバッハがまた面白かった。一瞬巻き舌のような表現が、確かに聴こえた。パンフレットを見ると彼は生粋のイタリア人ではないか、イタリア語独特のニュアンスが音楽に聴こえるとは! それでいて、このバッハがとても素晴らしかった。抹香臭さや宗教臭さがなくバッハらしくないのだが、曲は透明な水のように美しい。どこまでも透明で含むとほんのりと甘い水、そんな甘美さだ。静謐さの中に宿る歌やロマン、さらには色気さえ感じ、改めて演奏者がイタリア人なのだなあと思うのであった。それにしても、ソロになったときにサントリーの隅々まで満たした音色は、確かに音楽の至福を語っていた。
ちなみにディンド氏は1998年までミラノ・スカラ座フィルの第一ソロ・チェロ奏者を11年務めたた後、ソロ活動を始めたとのこと。
さて、次ぎはお馴染みのショスタコーヴィチの交響曲第5番、通称タコ5である。指揮のノセダ氏はパンフレットによると、ミラノ生まれ。チョン・ミュンフン氏、ゲルギエフ氏らの指導を受けたらしい。2002年にBBCフィルの首席指揮者に就任、2003年からはイタリア放送交響楽団の首席客演指揮者に就任の予定とのこと。ミュンフン氏とゲルギエフ氏に指導を仰いだとなると、演奏の型は、ある方向に向くと想像されてしまう。果してどうであったか。
曲全体の印象で思い出すならば、クライマックスよりも水を打ったような弱音のときに、オケから背筋が寒くなるような表現を聴くことができた。弦がものすごい弱音でトレモロを奏でているところなど、凍え、抑えられ、あるいは体を縮め静かに震えながら機会を伺うようで、凄みさえ感じた。逆に終楽章のラストに向けての表現も、過度にはなりすぎに歓喜は歓喜として十分にカタルシスを得ることのできる演奏に仕上がっていたと思う。オケが粗くなってしまう一歩手前で押さえているかのような統率力も聴きのがせないところだ。
ここで「歓喜は歓喜として」と書いのは、この交響曲の示した「歓喜」が、ベートーベン的歓喜なのか、「証言」にあるような「強制された歓喜なのか」と考えるからである。今日の演奏を聴いていて、弦セクションの気がふれているのではないかと思われるようなボウイングを目の当たりに見、そこから聴こえる血管ブチ切れ状態のヒステリックな響きを聴くと、少なくとも「強制」による「歓喜」ではないと思わされた。
それでは、心の底からの歓喜を表現したのかと問えば、ベートーベン的な平和が支配するような終わり方でもなかったようにも思える。ピアニッシモにおける極端なまでの静寂と、圧縮された高音高圧のガスが一気に蓋を押し上げて爆発させたかのような4楽章最後のラストではあったが、いったいノセダ氏が噴出させた感情は何だったのか、それは分からない。考えても分からないので、ここは素直にショスタコ的なねじれた諧謔性よりも、「歓喜は歓喜として」聴いた方が良さそうだ、と今日のところは思った次第だ。
ノセダ氏の表現は決してあざとくない。テンポもそれほど早めることはなく、特に第4楽章などはじっくりという感じだ。ゲルギエフ氏やミュンフン氏に指導を受けたというだけあり、表現はダイナミックだ。しかし感情の奔流に流されるような表現はノセダ氏には感じない、それがかえって心地よい。
第1楽章のピアノが低い打鍵をグロテスクな表現の部分や、あるいは第3楽章のチェロを中心とした低弦がザクザク弾くところなど、表現としてはどぎつくはしない。一方で第2楽章の3/4拍子、これがひどくアイロニックなワルツであることを優雅に教えてくれる。
そう言う点からは、好みの問題ではあると思うが、表現に甘さを感じた部分もある。甘く感じる所以が、オケ奏者の表現や音色によるものなのか、ノセダ氏の解釈なのかは、未熟な私には分からない。また全体に弦セクションと管楽器セクションのバランスに、少しばかりの違和感を感じた部分がなきにしもあらずだ。というのは、極度の緊張感を持ったヴァイオリンを中心とした弦セクションに続いて木管や金管が表れると、緊張がお祭り騒ぎになってしまう、という感じを何度か受けた。逆にこれはショスタコーヴチが狙ったアンバランスさなのかもしれない。このような違和感は第3楽章から4楽章になるに連れ全く払拭され、個々の音色とオーケストレーションは見事に一体化したのだが。
細かく思い出せば不満のひとつやふたつはあるものの、最終的な感想としては聴きに行ってよかったという満足で満たされたわけであり、上記に書いたような問題は瑣末的な問題でしかないとは思う。偉そうなことを書いたところで、所詮はオケを半年振りに聴くアマチュアである。明日になれば考えも変わり、あるいは忘れてしまうような戯言である。
演奏:東京交響楽団
プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47
「社会主義リアリズムへの苦悩」という主題に選ばれた曲は、1952年に初演されたプロコフィエフの交響的協奏曲と1937年初演のショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。
チェロ協奏曲の別名のあるプロコフィエフの曲は、3楽章形式で40分にもわたる大曲である。いったいクラシックサイトを運営していながら、どういうつもりなのかと思うかもしれないが、プロコのこの曲は始めて聴く。しかし聴き始めてすぐに曲の面白さに魅せられ、演奏時間の40分は、それこそあっという間に過ぎ去ってしまった。
解説によれば「皮肉なニュアンスをもった平明さと、抒情性やどぎついリズムなどによって、独特のコントラストが実現」とある、よくも端的にまとめてくれるものだ。聴いてまず驚いたのが、チェロという楽器の運動性能である。高音域から低音域までを余すことなく使って表現される独奏チェロは、この楽器のもつイメージを少し超えたものさえ感じた。チェロの音から他の楽器へとつながる音の連続性も面白い。
第2楽章アレグロ・ジュストにおいて叙情的な第二主題をチェロが奏るのだが、この優雅さは幻だろうかと薄氷を踏むような思いがよぎる。あるいは第3楽章の冒頭の主和音の強烈な響きは、一瞬何かのパロディであろうかと、思わず深読みしそうな意味を感じてしまう。音楽は多彩な変化を示し、ラストへ向けて強烈なリズムと弦の性急な刻みにのったチェロは、狂気と紙一重のような音楽を作り出している。
このように一瞬たりとも聴き逃すことができない、めまぐるしい音楽を聴かせてくれた。チェリストはそれこそ全身を使ってボウを弾きまわす。思い出してみると私の目と耳は、40分もの間チェリストに釘付けになっていたようだ。
プロコフィエフが終了した後、ディンド氏はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番サラバンドを演奏した。このバッハがまた面白かった。一瞬巻き舌のような表現が、確かに聴こえた。パンフレットを見ると彼は生粋のイタリア人ではないか、イタリア語独特のニュアンスが音楽に聴こえるとは! それでいて、このバッハがとても素晴らしかった。抹香臭さや宗教臭さがなくバッハらしくないのだが、曲は透明な水のように美しい。どこまでも透明で含むとほんのりと甘い水、そんな甘美さだ。静謐さの中に宿る歌やロマン、さらには色気さえ感じ、改めて演奏者がイタリア人なのだなあと思うのであった。それにしても、ソロになったときにサントリーの隅々まで満たした音色は、確かに音楽の至福を語っていた。
ちなみにディンド氏は1998年までミラノ・スカラ座フィルの第一ソロ・チェロ奏者を11年務めたた後、ソロ活動を始めたとのこと。
さて、次ぎはお馴染みのショスタコーヴィチの交響曲第5番、通称タコ5である。指揮のノセダ氏はパンフレットによると、ミラノ生まれ。チョン・ミュンフン氏、ゲルギエフ氏らの指導を受けたらしい。2002年にBBCフィルの首席指揮者に就任、2003年からはイタリア放送交響楽団の首席客演指揮者に就任の予定とのこと。ミュンフン氏とゲルギエフ氏に指導を仰いだとなると、演奏の型は、ある方向に向くと想像されてしまう。果してどうであったか。
曲全体の印象で思い出すならば、クライマックスよりも水を打ったような弱音のときに、オケから背筋が寒くなるような表現を聴くことができた。弦がものすごい弱音でトレモロを奏でているところなど、凍え、抑えられ、あるいは体を縮め静かに震えながら機会を伺うようで、凄みさえ感じた。逆に終楽章のラストに向けての表現も、過度にはなりすぎに歓喜は歓喜として十分にカタルシスを得ることのできる演奏に仕上がっていたと思う。オケが粗くなってしまう一歩手前で押さえているかのような統率力も聴きのがせないところだ。
ここで「歓喜は歓喜として」と書いのは、この交響曲の示した「歓喜」が、ベートーベン的歓喜なのか、「証言」にあるような「強制された歓喜なのか」と考えるからである。今日の演奏を聴いていて、弦セクションの気がふれているのではないかと思われるようなボウイングを目の当たりに見、そこから聴こえる血管ブチ切れ状態のヒステリックな響きを聴くと、少なくとも「強制」による「歓喜」ではないと思わされた。
それでは、心の底からの歓喜を表現したのかと問えば、ベートーベン的な平和が支配するような終わり方でもなかったようにも思える。ピアニッシモにおける極端なまでの静寂と、圧縮された高音高圧のガスが一気に蓋を押し上げて爆発させたかのような4楽章最後のラストではあったが、いったいノセダ氏が噴出させた感情は何だったのか、それは分からない。考えても分からないので、ここは素直にショスタコ的なねじれた諧謔性よりも、「歓喜は歓喜として」聴いた方が良さそうだ、と今日のところは思った次第だ。
ノセダ氏の表現は決してあざとくない。テンポもそれほど早めることはなく、特に第4楽章などはじっくりという感じだ。ゲルギエフ氏やミュンフン氏に指導を受けたというだけあり、表現はダイナミックだ。しかし感情の奔流に流されるような表現はノセダ氏には感じない、それがかえって心地よい。
第1楽章のピアノが低い打鍵をグロテスクな表現の部分や、あるいは第3楽章のチェロを中心とした低弦がザクザク弾くところなど、表現としてはどぎつくはしない。一方で第2楽章の3/4拍子、これがひどくアイロニックなワルツであることを優雅に教えてくれる。
そう言う点からは、好みの問題ではあると思うが、表現に甘さを感じた部分もある。甘く感じる所以が、オケ奏者の表現や音色によるものなのか、ノセダ氏の解釈なのかは、未熟な私には分からない。また全体に弦セクションと管楽器セクションのバランスに、少しばかりの違和感を感じた部分がなきにしもあらずだ。というのは、極度の緊張感を持ったヴァイオリンを中心とした弦セクションに続いて木管や金管が表れると、緊張がお祭り騒ぎになってしまう、という感じを何度か受けた。逆にこれはショスタコーヴチが狙ったアンバランスさなのかもしれない。このような違和感は第3楽章から4楽章になるに連れ全く払拭され、個々の音色とオーケストレーションは見事に一体化したのだが。
細かく思い出せば不満のひとつやふたつはあるものの、最終的な感想としては聴きに行ってよかったという満足で満たされたわけであり、上記に書いたような問題は瑣末的な問題でしかないとは思う。偉そうなことを書いたところで、所詮はオケを半年振りに聴くアマチュアである。明日になれば考えも変わり、あるいは忘れてしまうような戯言である。
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