何度か産経新聞の「産経抄」に違和感を表明してきましたが、北オセチア共和国の学校占拠事件に言及したも昨日のものは、薄ら寒くなる思いを強めました。
この悲惨な事故に対し産経は『二十一世紀の現代から暗黒の中世へ、時計の針が大きく後戻りしたように思えてならない
』と始めながらも、短い文章は『中世的暗黒と狂信の現場で、一すじの光明を見た。十三歳のハッサン・ルバエフという少年の勇気である
』とし、以下のように結んでいます。
彼はテロリストに正面切って抗議、「あなた方の要求にはだれも応じない。われわれを殺しても何の役にも立たない」と叫んだという。
▼テロリストは「お前はそう確信するのか」と問い返し、ルバエフが「はい」と答えると次の瞬間に銃声が響き、少年は倒れた。なんという野蛮、しかしまたなんという勇気だろう。堂々と正義を訴えて散った少年の光芒(こうぼう)の人生を、涙してたたえたい。
しばし、絶句・・・・
続く今日の「産経抄」は、『その時代の戦争は、その時代の歴史的背景を理解して評価すべきであり、いまの時代の尺度や価値観で解釈してはならない
』として、日露戦争も、大東亜戦争も、みな歪曲・醜悪なものと書き始め、『れわれはヨーロッパ人の世界地図で地球のことを認識していると
』という、指揮者 岩城宏之氏がいつ語ったかのかも知れぬ言葉をひき、
かかる西洋中心史観でみた典型が東京裁判だろう
として結んでいます。再び絶句・・・・
東京裁判が戦勝国によって敗戦国を裁いた偏った裁判であったことは、確かにその通りかもしれません。自国の誇りを取り戻すために、東京裁判史観を変えたいという心持も分らないではありません。しかし、この二つのコラムから言えることは、産経は日本の誇りを護るためには、彼らが涙して称えたような果敢な少年までを将来的に期待していることを新聞紙面でに主張しているということです。これはちょっと違うのではないかと・・・「日の丸」「君が代」を強制することと同じようなズレと恐ろしさを感じます。
「愛国心」の薄い私ですが、仮に日本が分割統治されており、経済的にも文化的にも貧しいままに独自の選挙も行えず誇りさえ奪われ、しかも両親や親戚が統治国に殺されている環境に育ち、その先に希望らしきものも見えないとしたら・・・そのときは、どうするかは全く分りませんし、それを考えることにも意味があるのか分りません。
blog::TIAOのコメントにあった一文と、プーチン大統領のチェチェン独立武装派と話し合うよう促す一部の西側諸国首脳の声に対する答えを引用しておきましょう。
「子供たちを亡くした父親たちは、なきがらを埋葬し、40日間喪に服したら…武器を手にとって復讐に立ち上がるだろう」 --オセチアの首都ヴラディカフカス大学学生の言葉
子供を殺した連中と話し合えなど、そんなことをわれわれに言い諭す高まいな権利が誰にあるのか
連中と交渉しろとわれわれに言うなら、(欧米諸国は)オサマ・ビンラディンをブリュッセルなりホワイトハウスなりに招待して、交渉し、要求は何か尋ねて、自分たちをそっとしてもらう代わりに要求に応じてやればいいではないか。そういう連中とのやりとりに一定の限界はあると、あなたたちは言う。だったら、なぜわれわれが、子供殺しの連中と話し合わなくてはならない? (2004.09.08 Web posted at: 12:39 JST)2 - CNN
世界の様相は、表の大義と裏の利権が複雑にからみあい、軽い嘔吐を催すほど位相は歪みまくっています。
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