坂口安吾を再読してみた、などとカッコウ付けたモノ言いを先日してしまいましたが、それが恥ずかしいまでの勘違いでしかなかったことを、「桜の森の満開の下」(昭22年)、「夜長姫と耳男」(昭27年)のニ作品を読んで思い知らされました。
小説を読んで、衝撃を受けたり、呆然としたり、陶然としたり、泣きそうになることなど、そう滅多にあるものではありません。しかし、この二つの作品には心底慄然とし、そして読後には名状しがたい感情に包まれてしまいました。どちらも恋愛作品の形を成していながらも、その異形の美しさ、アンモラルなまでの残酷さ、それに反比例する純粋さ、ラストに向けての予想外の展開、そして、そこに現れる虚無と孤独に満たされた充実感。
坂口安吾といえば、学生時代には「堕落論」と「日本文化私論」そして「不連続殺人事件」くらいしか読んでいなかったのかもしれません。今回「FARCEについて」や「文学のふるさと」「風博士」などを読み進めますと、坂口を読み解くキーワードのひとつとして「不連続」というか、すなわちプツンとちょん切られた空しい余白(「文学のふるさと」)
ということを感じます。坂口は、その余白に非常に静かな、しかも透明な、ひとつのせつない「ふるさと」を見ないでしょうか。
と続けます。
坂口の指摘する「ふるさと」の意味は、我々が日常に使う語彙とは異なっています。そこで得られる虚無、恐ろしいまでの孤独、不連続性、不条理にも似た感覚、そして何か、氷を抱きしめたような、せつない悲しさ、美しさ
。そういうものが存在する場所。そして、そういうものを表現しきっている小説の凄さ。私の拙い言葉では、作品の魅力を還元することは困難、坂口安吾、恐るべしですね。
かの松岡正剛氏もともかくは『夜長姫と耳男』を読むべき
と書いています。本屋に走らなくても「青空文庫」でかなりの作品(著作権切れ作品のボランティア配信)を読むことができます。azurブラウザ使用しますと、電子ブック感覚で読みやすいです。
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