私は現在本書の感想を、フルトヴェングラーの1947年5月25日、ベルリン復帰コンサートのCDを聴きながら書いています。本書ではティタニア・パラストは開演前から異常な熱気に包まれていた。切符を正規のルートで買えた幸運な人、ダフ屋に法外な金額を払って入手した裕福な人、家具を手放してでも聞きたいと思った熱狂的な人・・・・・・二千人の観客は、その時を待った。(p.159)
と書かれている、いわゆる伝説の演奏のひとつです。ファンには特別の思い入れがある演奏なのだと思います。
私はフルトヴェングラーの同曲異演と比べるほどには熱心ではありませんが、それでもベートーベンの「運命」の迫力には改めて圧倒されてしまいました。
中川氏はあとがきで次のように書きます。
音楽を聴くのに、その演奏者についての情報は不要だ、純粋に音楽を聴くべきだ、という考え方がある。もっともな意見ではあるが、私はそうは思わない。(中略)そう思って聴くのと、そうでないのとでは、感動の度合いがまったく違う。(P.307)
この考え方には異論もあると思うので今はこれ以上突っ込むつもりはありません。私は1947年の演奏を聴きながら、本書の内容を感慨深く思い出し、そしてやはり涙ぐんでしまいました。音楽が純粋に持つ力以上のものを、意識的にせよ聴きとってしまいます。
本書は「クラシックジャーナル」に連載されていたものを全面改稿したものらしく、最近の「の★だめ」によるクラシックブームを当て込んでの本ではなさそうです。それであっても「の★だめ」を卒業し少しヒストリカルな音盤を漁る人であれば、いずれは目にするであろう逸話を、戦前から戦後のひとつの時代にかけてシームレスに読むことができます。
内容はカラヤンとフルトヴェングラー、そしてチェリビダッケの3名に焦点を当て、権力闘争と人間模様を書くという筋立て。三人の指揮者の音楽観については全く触れていません。マニアには重大な、しかし一般リスナーには些細な(あるいは無意味な)評価(=私観)を排しています。そのため本書はクラシック音楽にあまり親しんでいない層にも面白く読むことができ、作者の意図は成功していると思います。すなわち権力闘争やゴシップ好きな、そして華やかな世界の舞台裏の世界を覗き見たいという、人の持つ下種で多少悪意に満ちた、しかしごく自然な好奇心を十分に満足させてくれます。
ただし三者の描出の仕方は比重としては圧倒的にフルトヴェングラーが重い、そして、フルトヴェングラーの優柔不断さにと政治的無知さについては、結構厳しい口調での批判を込めています。チェリはここでは「実力はあるけどイヤな奴」としか読めない(笑)
中川氏はあとがきで、登場人物の言動はすべて文献資料で確認した事実に基づいているが、人々の内面、感情については、想像して書いた部分がある
、感情や心理はひとつの解釈にすぎない
と書きます。私は、敢えて作者が主観を持って書き上げたことで非常に興味深い「物語」を描出できたように思えます。すなわち「帝王」という存在が生まれた「物語」を。
カラヤンがフルトヴェングラー生きている間はもちろん、死した後も伝説と闘わなくてはならなかったとする論には考えさせられます。そして現在の三者に対する評価を考えると、中川氏ならずとも歴史の皮肉を感じるとともに、一時代の恐ろしくもすばらしい才能の開花に身震いさえ覚えます。
最後にしつこいのですが、再び中川氏の言葉をあとがきから引用しておきます。
「人柄のいい人」の、「お上手な演奏」など、聴きたくない。すごいものを聴かせてくれるのなら、どんな悪人でもいい
確かに私が聴きたいのは(いつもというわけではないにしても)感動させてくれる音楽です。人間性と音楽などと論じるのは野暮なことなんでしょうか。
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