歌舞伎評論の第一人者である渡辺保氏による歌舞伎の解説書。もともと新曜社シリーズの「ワールドマップ」の一冊として企画され現代の思想、風俗、社会現象、文化などを記号論によって分析
しようとしたものであったそうです。
記号論云々は私にはさっぱり理解できませんが、渡辺氏の歌舞伎に対する真摯な考え方に触れることができることと自分の中での歌舞伎観を再構築する意味において非常に有益な書でした。
私がこの本を書くことを決心した理由はたった一つしかない。私自身の歌舞伎の美学というものを書きたかったからである。(「口上」P.10)
まさにこの一言に、渡辺氏が歌舞伎の中に何を観ているのかを理解することができます。幼いころから陶然として役者を眺めてきた渡辺氏には、歌舞伎かくあるべきという信念と真摯な熱意が溢れています。面白いのは彼の本書に対する姿勢です。最初に歌舞伎の美学を書くと言っておきながら、
ところで私たちの歌舞伎の美学というものが一体どういうものであるのかは、いまのところ私にもまったく分からない(「口上」P.12)
などと書いています。本書は「解説入門書」の類とはその本質を全く異にしている
と続け、
この本は、そういう私自身の自己証明のために書かれ(私と同じような感心をもたれるごく一部の方々のためにのみ書かれ)る(「口上」P.12)
としています。とは言っても偏狭な知識や見解をひけらかしたり、引用だらけの凡百の書とは雲泥であり、また難解な歌舞伎論が展開されているわけではなく、少しでも歌舞伎を面白いとか魅力的であると感じたことのある人には、充分に納得できる内容が散りばめられておます。とくに本書を読み進めると、あたかも歌舞伎の舞台が眼前に展開されているかのような心持ちになるところは流石でしょうか。
彼が本書をしたためた意図を再度確認しますと、P.13でもう一度繰り返される自己証明の意味をもつ書物
、自分の内なる歌舞伎を分析することによって時代の証言台に立ちたい
ということでした。その裏には今現在も変遷を続ける歌舞伎というものがあり、歌舞伎を観て育てている観客というものがあり、それらを含めて変遷しつづける世界の存在を渡辺氏は示唆しています。
以前も触れましたが、歌舞伎が変化する理由については時代の感覚が変わったから
であるとした点には深く頷かざるを得ません。「芸」に支えられた伝統芸能である歌舞伎の変遷を辿ることは、ある意味で私たちの時代精神の自己証明でさえある点で、私の中でも興味は尽きません。
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