2006年5月3日水曜日

町田康:くっすん大黒、川原のアパラ

「くっすん大黒」116回芥川賞候補(1996年)となった作品であり、落選はしたものの筒井康隆氏が本作を絶賛しました。
1997年には第19回野間文芸新人賞、第7回ドゥマゴ文学賞を受賞しています。


と書くと、さぞかし「凄い作品」なのだと思うでしょうが、ここでも町田氏の脱力ぶりと下降志向は健在です。氏の芥川賞受賞作である「きれぎれ」やその他の作品よりも狂気や陰惨さは少なく、快活で滑稽な作品に仕上がっています。小説を読みながら久しぶりに「ゲラゲラ」と笑ってしまいます。それでいて計算づくの恐るべき小説でもあります。(Amazonへ




無意味な教養という以外何の役にも立たなかった学校教育の国語において暗記させられた「名作」の冒頭を思い出すまでもなく、小説の出だしの文章というのは極めて象徴的です。ここにおさめられた「くっすん大黒」と「川原のアパラ」の冒頭を拾ってみましょう。


もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの? あきまへんの? ほんまに? 一杯だけ。あきまへんの? ええわい。飲ましていらんわい。(「くっすん大黒」より)


おおブレネリ、あなたのおうちは何処? わたしのおうちはスイスランドよ。綺麗な湖水の畔なのよ。やーっ、ほーっ、ほーとランランラン、って、阿呆かオレは。なにもかかるケンタッキーフライドチキン店の店頭で、おおブレネリを大声で歌わなくてもいいじゃないか。(「川原のアパラ」より)


アホくささと諧謔、さらに小説のストーリーも実にたわけたハナシであります。こんな作家の小説は、普通は読む気になりませんかね。しかし町田氏の小説に潜む愉悦を一度知ってしまうと、なかなか、こんな莫迦げた文章がいとおしくなるから不思議です。


町田氏の小説を読みながら落語の持つ滑稽さに通底するものを感じる人もいるでしょう。あるいは下降志向や自嘲趣味から太宰治に繋がる文学性を感じ取る人も多いでしょう。はたまた「町田康=小説の主人公の告白」的な意味合いから、近代文学における作家と作品のありようや、誰も書きませんが、自意識過剰なまでの描写から三島由紀夫にどこか繋がる匂いを感じ取ることができるかもしれません。場合によっては「くっすん大黒」からは大友克彦の初期作品を、「川原のアパラ」からはつげ義春的ブラックさを嗅ぎ取ることも妄想とは言えないかもしれません。


町田氏の小説の表面世界だけをなぞるならば、面白いけれど不快にして、後に何も残らないという感想も成立しえましょう。しかし町田氏が敢えて堕に向かう精神とその生き様を、さらに現実世界への瑣末的な拘泥や、生きることの無様なまでのありようを徹底的に描くことは、実のところ人間の本質面に対するさりげない問いであったりします。古今の文学的なテーマを一度解体した上で、絶妙の町田節に乗って再構築されたその小説は、面白いだけで終わらない世界を持っていると確信できます。