2003年7月1日火曜日

高村薫:李歐



先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではないのでご注意願いたく。


高村薫氏の小説を読むことにそろそろ飽きてきたか?と自問するならば、まだまだ、とことん毒を食らわば皿までもという心境になってきた。




この作品は1992年の「わが手に拳銃を」を下書きに新たに描き直したものとのこと。「わが手に~」は(このレビュを書く段階では)まだ読んでいないが、高村氏はここにきて遂に"恋愛小説"に手を染めてしまったかと苦笑いを禁じ得ない。この物語は結局は李歐という男に惚れた男の話でしかないし、機械や拳銃に対する偏愛的な描写も不必要なほど克明だ。彼女が書きたいものを制約を取り払って書き尽くしたという潔ささえ感じる。


"恋愛"とは言っても、彼女が繰り返して書いてきたテーマは"男と男の深いつながり"のことだ。それは"友情"という青さを残したものではないし、男女とのつながりとも決定的に違う、抗うことの出来ない熱情を感じるつながりだ。今までの作品で、それが描かれてはいても、男同士の関係性を包み込むドラマやストーリーが壮大で、そちらの方に主眼が置かれてきた。本書では高村的国際裏舞台は完全に背景にまで後退し、変わりに臆面もなく、そして全面的に"恋愛"が登場したというわけだ。


主人公は吉田一彰。自分が何物かわからず、地につながれた風船のように希望もなく漂っていたのだが、全てにおいて圧倒的で妖しいほどの魅力をもった殺し屋の李歐に出会い、惚れてしまう。桜の季節をうまく組み合わせたところは、作品に儚くも脆い夢のような雰囲気を与えるのに成功している。李歐のもつ妖しげで危険な匂いとともに、まるで妖術に陥るかのように読むものも李歐に惹かれてしまう。


後半になって李歐が単なる殺し屋ではなく、表の金融世界で成功者となってゆく点には違和感を覚えないでもない。李歐の持つ圧倒的パワーは認めるものの、彼のキャラクターと表での成功というのがなかなか結びつかない。また、数奇な運命を辿り、成功者となった李歐が、十数年も前のひと時に出会った一彰という"行きずりの"男を焦がれる理由も判然としない。"一目惚れ"による"両想い"の"恋"なのだから、理由などいらないと言えばそれまでなのだが。一彰にしても、登場早々に勤務先の麻薬中毒の上司をスパナで殴り倒し警察に突き出すという凶暴性や自己破壊願望が、李歐と出会ってからはひたすら真面目で大人しくなってしまう様も納得しがたいところだ。


しかし、まあ良い、全ては"恋愛小説"だと思えば、常軌を逸した関係も設定のおかしさも許容できるというものだ。一彰が最後に自分を解放したように、高村氏も自分自身をこの作品で解放したような気がする。男と男の関係が理想的過に過ぎること、男同士の体臭が少し薄れていること、読んでいて気恥ずかしくなる描写なども、高村氏がただただ、李歐を書きたかったというふうに考えれば承服できるものだ。


だから「リヴィエラを撃て」や「神の火」のような重い読後感はない、人間をえぐるような深さも薄いという感想も成り立とう。それでも文庫本403頁で李歐の幽霊が現れたところからラストまで、ほとんど出来レースのようなストーリー展開だと分かってはいても、高村氏には嵌められてしまう。一気に読ませ、単純な私は深く感動してしまう。


それにしても高村氏の描く男性は、なぜに冷徹で残酷な殺し屋が、かくも美しく知的であるのか。彼女が描いたモモや良、モーガンなど、皆テロリストとしての哀しい末路を辿ったが、ここで高村氏は李歐を殺すことをためらった、李歐と一彰には連れ子まで用意して第二の人生を与えた。今まで散々スパイやテロリストを小説の上で葬ってきたことを贖うかのような、あっぱれな結末だ。やはり高村氏は李歐に"惚れた"か。それ故に生ぬるさも残るのではあるが、こういう救いのある小説も破壊と破滅と神の啓示しか残らないような暗い小説と比べて悪くはないと思いなおしたりする。


一彰が真面目に働き誠実に振舞えば振舞うほど、自分自身の本心を隠蔽し、そしてその行為自体が不実を働いているという矛盾した姿は印象的だ。これは多くの高村氏の主人公が有する捩れた二重性だ。不実であることはいつかは破綻を来すものなのか、あるいは自己破壊に向かうのか。最後まで騙しおおせないのは他者ではなく自分の内実であるということを今回も高村氏は教えてはいる。それが犯罪行為としての破壊衝動へと突き進むほどには一彰は若くも無謀でもないのだが、逆に不確かな男(李歐)との約束を信じ、妻子を捨てたという点においては、自己破壊を突き進む者よりも更にたちの悪い不実を働いたことになったような気がしないでもない。ある意味において、一彰の視点は高村氏の視点そのものであるのかもしれないと思うのであった。