2005年8月11日木曜日

靖国問題は「問題」ではない


松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOGから靖国問題に対するTBをいただきました。考えがまとまっているわけではありませんが、ここにメモしてきます。松尾氏は高橋氏に対立するスタンスです。




ブログにおいて松尾氏は、長谷川三千子さん(女性の保守系言論人)の批判について長谷川さんの「靖国問題は問題ではない」の一文に私は激しく同意するとして、


国家が兵士たちを「戦争に動員して死に追いやった」などという言ひ方ほど、「人間不在」の言ひ方はありますまい」 「なによりも決定的なのは、国や人は時として、戦はざるを得ないことがある、といふ洞察が完全に欠落してゐる、といふことです」(同書・124頁)


「さしあたつて、近代民主主義といふものを基盤に話をしてゐるかぎり、国家が戦争や武力行使を想定しなかつたら、などといふ空想にふけるのは止めにした方がよい。(中略)この本の価値は、ほかでもなく「靖国問題」は問題ではないと気付かせてくれるところにこそあるのです」(同書・129頁)



と長谷川さんの一文を引用されています。「靖国問題」の孕む問題が国家のありようを規定するところにまで膨らんでいることには同意します。近代民主主義を基盤にする以上は「軍隊を有しない国家」など考えようもないことも理解します、従って「靖国的なるもの」は不可欠なものであることも仕方ないことであると思います。


長谷川さんは「戦はざるを得ないことがある」と指摘しますが、本当に戦う必要があったのか。というよりも、日本は正しい判断のもとに戦争を継続し続けようとしていたかという点に私の疑義があります。大東亜戦争と日露戦争の日本のありようは例えば司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」を思い出すまでもなく非常に違っていたようです。


ヒストリーチャンネルで放映(8月6日)された日本映画社「海軍戦記/陸軍特別攻撃隊」は涙なくして観ることができませんでした。特攻隊ですから生きて帰らぬことを前提とし「再び会うのは靖国の杜で」と誓いながら無謀な戦いに挑んでいった若者を描いています。彼らは心底から「戦はざるを得ない」と感じて命をかけたのでしょうが、その国家判断は間違っていなかったのか。政府は戦争の引き際をどう考えていたのか、大東亜戦争においては児玉源太郎は存在できなかったのか。


日本の敗戦後の戦争責任については歴史を紐解けばすでに決着済みでありますが、なぜこんなにも尾を引くかと言えば、日本国内での総括と歴史観が形成ができていないからでありましょう。現状においては高橋氏の結論の「非武装国家」は確かに妄想でしかないと思いますが、そうであったとしても愚かな指導者の間違った政策の下に死にたくはありません(>と最後は好悪などの感情論に落とすか?)。世論や政治家や評論家の言説にはまだまだ注意が怠れません。