八月歌舞伎の第二部、「けいせい倭荘子 蝶の道行~長唄連中」と「京人形~常磐津連中、長唄連中」の感想も忘れないうちに書いておきましょう。
「蝶の道行」は主君の身代わりになって死んだ小槙(孝太郎)と、その後を追った助国(染五郎)が死後の世界で蝶になって戯れるという舞踏。長唄は何を歌っているのか、予備知識なしではほとんど聞き取れないため「ああ綺麗な舞だなア」という感想以上のものを持つことができないのが残念。
二人のの馴れ初めを思い出しての舞や、蝶になっての夢幻的な舞の後、一転して地獄の責め苦となります。舞踏における「地獄の責め苦」は「鷺娘」でも見られましたが、江戸のサディスティックな愉しみのひとつなのでしょうか。残念ながら、踊りの展開が読めなこともあって儚さや美しさを感じる以外は余り楽しめませんでした。
また多くの方が書かれていますが、最初は蛍光塗料の大きな蝶が二匹ブワブワと舞台の闇を飛び、明かりが付くと一面の下品なほどに大きな花に埋もれている舞台は、それだけで何か時代をトリップしたシュールさ。「地獄の責め苦」の場面も、「めらめら」と萌える燃える炎のライティングが「グルグル」まわるまわる・・・、このような演出も少し興醒め、昭和37年の武智鉄二氏の演出が古臭いということなのでしょうか。
「京人形」は反して素直に楽しめる、歌舞伎らしいおおらかさに満ちた舞台。人形師左甚五郎(橋之助)が郭で見初めた花魁そっくりな人形を彫り上げ、人形相手に酒を飲んでいたら人形(扇雀)が踊り始めるという他愛のないもの。こういう題材から、廓が江戸時代の男性達の憧れの場所であり、花魁が女性の理想像(高嶺の花)であったことが伺えます。
現代から考えると「奇異」にも「ヲタク」にも、あるいは「不気味」にさえ感じられる左甚五郎の行動(人形相手に酒を飲む)に対し、女房(高麗蔵)も左甚五郎に言われるまま仲居の真似をして酒をもってきたり、そういう左甚五郎の妄想を暖かく見守ってやったりと、男性のメルヘン全開の筋立て。
私は甚五郎が一人人形と悦に入っている間に、奥方は奥にひっこんで一体なにをしているのだろうと、実のところ舞台には全くカンケイないことが、ずーっと気になったりしていたものです。かくまっている井筒姫と「男って単純で莫迦よね」とお茶菓子つまみながら悪口言っているとか・・・もしかしたら竈の前で贔屓の歌舞伎俳優の錦絵を相手にメルヘンしているとか・・・
演目自体は橋之助の笑顔といい、扇雀の踊りのコミカルさといい、歌舞伎を堪能できるスカッとするラストといい、まったくモンクの付け所は御座いませんです。
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