2005年8月28日日曜日

歌舞伎座:伊勢音頭恋寝刃





八月納涼歌舞伎の第二部
を観てきました。演目は「伊勢音頭恋寝刃」より油屋と奥庭、「蝶の道行」、「京人形」の三作です。中村勘三郎襲名披露以来の歌舞伎で久しぶりの観劇です。


今月の歌舞伎界の話題といえば、夜の部に演じられる串田和美演出の「法界坊」であることは間違いないでしょう。しかし勘三郎襲名の最後の演目は「野田版 研辰の討たれ」でしたから、いま一度しっかりとした古典歌舞伎を観たいという気持ちもありました。また渡辺保さんの歌舞伎評でも「伊勢音頭」をして今月一番の期待作と書かれていましたし、戸板康ニ氏に関するサイトでもある「日用帳」でもなんといっても三津五郎の『伊勢音頭』がたのしみでたのしみでしかたがない、三津五郎の『伊勢音頭』と聞くと当然たのしみにしてしかるべきの『法界坊』なぞすっかりかすんでしまったというエントリを読み、もう「伊勢音頭」しか眼中になくなりました。それで観終わった後の感想はといえば「歌舞伎ってやっぱり面白いなあ」という深い満足感でありました。


簡単に感想を書き留めますと、まず何と言っても渡辺さんも指摘されるように三津五郎の貢役がよかった。台詞の聞き取りやすさ、見栄の決まり方、イキの良さ、場の雰囲気の変え方、まさに歌
舞伎の型がそこにあり、そして歌舞伎を観る楽しみを充分に味わわせてくれる役周り。いったいいくつの見栄を切ったことでしょう、そのいちいちが小気味良く、胸の奥でストンと落ちるべきところに何かが落ちる感じ、これが歌舞伎の醍醐味か。


この貢にからむのが勘三郎の万野。勘三郎が舞台に出るだけで客席から笑いが漏れるのはいかがなものかと思うものの(万野が死ぬところまで笑いが漏れるんだからヤレヤレです)それが人気役者たる由縁か、それでも性根の悪い万野役をきっちり演じ切っていました。ここが生ぬるいと貢の中で鬱屈した感情が育たない、また陰湿に過ぎると舞台が暗く重くなる。勘三郎の笑いと真剣な部分のバランスは絶妙。


この「伊勢音頭」という物語、遊女お紺(福助)の愛想尽かし、妖刀「青江下坂」の魔力につられての郭での連続殺人と来れば思い出すのは4月の襲名披露の演目「籠釣瓶花街酔醒」です。あちらはどうしようもない悲劇性を帯びていたものの、こちらはラストのあり方を含めてもう少し軽い、というか、先にも触れた勘三郎の役柄が上手い具合に喜劇的性格を付与し、最後はムチャクチャな筋立てであるのに不思議とやりきれなさや救いのなさが少ない。


いや、軽いのはもしかすると三津五郎演ずる貢の性格にもあるのかもしれません。歌舞伎とは、また当時の感覚は「こんなもの」という肯定的な面が強く、逆にそれ故にといいましょうか、籠釣瓶に通じるような現代性は少ないように感じました。

舞台が廻って踊り子の華やかな音頭の後、血まみれの人物が現れての殺しの場面も残酷なシーンを楽しむというエンタテイメント性を演出に感じ(ちょっと長すぎるが)、18世紀末の江戸の文化的爛熟さを垣間見る思い。


醜女という設定のお鹿(弥十郎)がちょっとかわいそうな役回りですが、これというのも全ては万野の悪企みのせい。ではいったいに万野は何故にここまで貢を陥れようとしているのか、という謎が残ります。観ていると貢の怒りを買うような行動ばかりしている。徳島岩次とつるんで貢から銘刀を奪い取ろうと企んでいるだけにしては、ちょっとやりすぎな行動。「嫌い嫌いも好きのうち」なんて可愛い感情でもない。


こういった行動に対して一閑堂のpontaさんは玉三郎万野の平安というエントリで、


彼女の男への執着は闇のように深く、濃いのだ。あたかも煮詰まった毒酒のように…。
そんな彼女はようやく獲物をみつける。

(中略)
今日の破滅、貢に仕掛けた破滅だけは不可逆なものであって欲しいと万野は思っていたのではないか?



と1999年6月に歌舞伎座で演じられた仁左衛門の福岡貢、玉三郎の万野の「伊勢音頭」を引き合いにして書かれています。この捩れて深い業のような人間性。そのようなものまでは勘三郎の万野からは感じることはできませんでしたが、先の疑問に対する一つの回答であるのかも知れません。


愛想尽かしをするお紺についても最後にふれなくてはならないか。何故愛想尽かしをするのか、そのわけが観ていて分からなくてはならない、お紺は貢の方を見もせずに、寝入っている岩次(>たっだよな?)の懐近くに手をかざし、ひたすらに憎まれ口をきいている。ああそうか、そうかと分かる演技、女心は怖くていじらしくてフクザツだなあと。


お紺、万野、お鹿という三者三様の女模様の複雑さや深さ。これに比べたら男はなんと単純なことよのう。劇を支配する支離滅裂さと脳天気な結末は、勘三郎の「軽さ」ではなく、貢の持つ「男」というものの、どうしようもない単純さと軽さに起因しているのかもしれない。


ちなみに「伊勢音頭」は寛政8年(1796年)に近松徳三の書いた歌舞伎で、同時期に伊勢古市の油屋で起きた事件を題材にしています。一方の「籠釣瓶」は三世河竹新七により明治21年に初演、享保年間の百姓次郎左衛門の吉原百人斬が題材になっております。どちらも「妖刀」の魔力による殺人とされていますが・・・刃物は人を魅了する力を持っているのですなア、おそろしや、おそろしや・・・浴衣といい、ウチワといい、スプラッタといい、まさに納涼歌舞伎でございました。