2006年3月8日水曜日

音楽が語る以上のこと

クラシック音楽の垣根・・・?」というエントリに、ぽん太さんからコメントをいただき、レスを書いていたら予想に反して長くなってしまいましたので、ここに改めることとしました。

(とりあえずコメントに対するレスなので)こんばんは、かの本を読み始めたのですね。私自身、久々に楽しめる新書であったと思っています。


ところで西洋芸術音楽の「時代を超えた大きな思想」とか「精神性」についてですが、そこに着目しすぎると音楽本来の持つ魅力からどんどんずれていくように思うことがあるのです。少し前まで(今も?)日本の音楽界の本流はドイツ・オーストリアの音楽であり、ベートーベンなどに比べてチャイコフスキーは「精神的に深みが足りない」などと評されたものです。また指揮者にしても、ドイツ・オーストリア系を振らない指揮者、あるいはピアニストは、どんなに人気があってもホンモノではない、という評価は未だに耳にするところです。


ところが、この「思想」とか「精神性」、あるいは「ホンモノ」というのが、どこか胡散臭い。純粋音楽に標題性や歴史性を、更にはそこから思想や精神性を聴き取ることは、妄想とは言わないまでも結局はごく個人的な事柄でしかないという思いが捨て切れません。


個人的なことになりますが、私は小学生の頃から国語が大嫌いでした。特に「この文章のテーマは何か、作者の言いたい事は何か」という問いは、ほとんどはずしていました。どんなに読んでも、回答のようには考えられない。それ以来、作者が意図したとおりに読者に伝わるということは、私の経験からすると、ほとんどありえない、万人が万人的に解釈することこそが正しく、正解を求めることが間違っている、と勝手に思うようにしました。


ですから、作曲家のごく個人的な事情(作曲の背景や主要主題の意味的なもの、あるいは極めてプライベートな書簡類)まで理解した上でないと西洋芸術音楽を理解できないとしたならば、それって一体何なんだろうと思うわけです。モーツァルトにしても、自分の音楽を聴く人が作曲家のスカトロ趣味や妻との性生活を熟知した上で作品に接することになるだろうなんて、想像だにしなかったハズです。


音楽ではなく美術に転じますと、キリスト教の宗教画や17世紀頃のオランダの静物画またはブリューゲルの幻想絵画などに隠された寓意を知ることは、作品解釈において重要なファクターですし、その理解する過程そのものがスリリングな楽しみを伴うことは否定しません。しかし、ぽん太さんのお好きな歌舞伎にしても、時代背景や文学性に拘泥しすぎると、歌舞伎本来のもつ魅力が硬直化したように感じる瞬間はないでしょうか。それらを知らなければ作品を楽しめないということは、決してないはずです(各人が各様に楽しむだけ)。


音楽も同様に「そこから聴こえる以上のこと」に拘泥しすぎること、何かが聴こえなくなることもある、音楽の聴き方を自ら制限することもあるのではないかと。(ここは、こう聴かねばならない、とか、こんな音楽ばかり聴いていてはダメだとか。中途半端な聴き方ではだとか・・・) 私は学者でも音楽家でもなければ演奏家でもありません。そういう深い理解まで、作曲家が果たして期待していたのかと思うと、案外そうではないかもしれないと思うこともあるのです。


たとえば、トリノオリンピックで金メダルを取った荒川静香さんの演技の裏話は、週刊誌やワイドショー的には面白いでしょうが、彼女の過去や境遇を知らなければあの演技に感動できなかったか、といえば嘘になる。「演技が語る以上のこと」を知る必要が一体どこにあるのかと。