2004年9月6日月曜日

ヴェルディ:歌劇「トロヴァトーレ」DVD

ヴェルディ:歌劇《トロヴァトーレ》全曲
ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
レオノーラ:エヴァ・マルトン
アズチェーナ:ドーラ・ツァイーイック
マンリーコ:ルチアーノ・パヴァロッティ
演奏:メトロポリタン歌劇場管弦楽団、メトロポリタン歌劇場合唱団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ファブリッツィオ・フレジェリオ
録音:1988年10月 メトロポリタン歌劇場におけるライヴ
DVD DG UCBG-9010

今日は昨日からの雨が朝から降り続いています。休日に雨が降るなんて久しぶりです。気分転換に掃除などしながら、そういえば買ったまま開封していないDVDでもと思い立ち覚悟を決めて1)、ヴェルディの《トロヴァトーレ》を聴くこととしました。

それにしても、CD店に行くとCDやDVDをカゴいっぱいに買っていく人2)をよく見かけますが、ああいう方々は、一体いつお聴きになっているのでしょう・・・

ということはさておき、感想です。自分のメモのために書いていますので、長いだけで内容がありませんのであしからず。

ヴェルディ中期の作品として有名な歌劇ですが、本作品に接するのもこの盤が初めてです。ヴェルディの歌劇は、DVDで《リゴレット》《アイーダ》《椿姫》と聴いてきましたが、この作品もヴェルディ節が満開でありますね。

全くの予備知識なしに観たものですから、結末の悲惨さにまず慄然としてしまい、しばし言葉を失ってしまいましたが、こういう衝撃は初見でなくては(かつストーリー展開の読みに鈍くなければ)決して得られないものです。私はどちらも当てはまっていたため、一生に一度だけの幸運を体験できたというわけです。

全く救いのない結末といい怨念に近い復讐劇といい、「呪い」というテーマはヴェルディの好きなテーマなのでしょうか、《リゴレット》のラストを彷彿とさせます。「復讐」を、ジプシーのアズチェーナは母親から、一方ルーナ伯爵は父親から受け継いだものであるという点から、まさに血を伝わった「呪い」であると言えましょう、何か業のようなものさえ感じます。

ヴェルディは悲惨な物語であることを、表面的には感じさせないほどに全編華麗かつコテコテな音楽に仕上げています。そして、主要人物の4名がほぼ同格の扱いで歌劇の全編において重要な役割を果たしているということが、同時期に作曲された《椿姫》とは徹底的に性格を異にしているように思えます。それゆえでしょうか、聴いていて正直少し疲れました。これは私に馴染みのアリアなどがほとんど無いせいもあるのですが。

4名の人物が同格とは書きましたが、聴いていてもそれぞれの役割が技巧的にも並大抵で歌えるものではないのだろうなと思います。

まず何と言ってもマンリーコ役のパヴァロッティ、この演奏は彼が53歳頃のものですが(役のマンリーコは16才程度の青年です)、舞台に出るだけで拍手が沸き、一声発するだけで歌劇場に色香が漂います。まさに華のある歌手なんですね、全く素晴らしい。三大テノールのひとりとして名声を欲しいままにしたわけが分かります。顔だって決してハンサムというわけではないのですが(失礼)、あの歌声で熱唱されるとグラグラと来てしまいます。絶頂期を過ぎているのでしょうが第3幕ラストでのアリアは見事。

次に特筆すべきはアズチェーナ役のドローラ・ツァーイックですね。第2幕で昔の物語を語るシーンの迫力と歌唱力にまずびっくりしました。劇においても存在感抜群です。演出上はジプシーの老婆という、妖しいく暗い情念を秘めた役柄ですが、マンリーコが16歳であることを考ると、本来はそんなに年老いていないはずです。というか物語人物と配役の人物年齢に関しては、他の2名とも破綻していますがね。レオノーラに至っては14~15才くらいでしょう。もっとも、それではオペラを演じられませんから、これは眼をつぶる問題なのでしょう。

ドローラ・ツァーイックですが、どこかで観た事があると思ったら、DGのDVD《アイーダ》(レヴァイン/メト歌劇)で、アムネリス役として出ていたのですね。こちらは1989年の演奏です。アムネリスは嫉妬とプライドに揺れるエジプトの王の娘を演じていましたが、こちら《トロヴァトーレ》のアズチェーナ役の方がぴったり来ますね、それくらいはまり役に思えます。

先の《アイーダ》といえば、アモナズロ役として登場していたシェリル・ミルンズが、こちらではルーナ伯爵を演じています。アモナズロは脇役でしたが、こちらは立派な主役の一人。最後まで生き残る天蓋孤独の若き伯爵です。彼はひたすらにレオノーラへの愛を渇望します、戦争も部下もそっちのけで、レオノーラ一筋です、ミルンズの実年齢にだまされてはいけません、おそらく彼とて10代後半のハズ。ここまで愛に飢えていながらも、最後は裏切られるという何ともやりきれない役どころです。彼が居ることで劇が締まっています。

最後は、マンリーコとルーナ伯爵ふたりから熱烈なる愛を求められるレオノーラです。彼女も観た事があると思ったら、1987年のDG《トゥーランドット》(レヴァイン/メト歌劇)での氷のようなトゥーランドット姫を演じたエヴァ・マルトンでした。ふたりの男性に熱愛される女性なのですから、劇としても最重要の役だと思うのですが、彼女だけが今ひとつ私にはピンときません。歌声は申し分ないのですが、それでもちょっと強すぎるかなという印象を受けてしまいます。トゥーランドット姫は抜群だったのですがね、というかこちらの印象が強すぎましたかな。

それにしても、ヴェルディは何故にこのような悲劇的で救いのない歌劇を書いたのか、一体「復讐」は成就したといえるのか、誰かが救われたのか。ストーリーそのものは知ってしまえば単純で、2時間ちょっとの短い間に感情表現などを盛り込むため、人物像も時間軸も単純化されてはいるのですが、それぞれに与えられた役どころを考えると、そうそうテーマではないようにも思うのですが、手元に資料も何もないのでこれにて今回はおしまいです。


  1. マーラーだとかブルックナー、それにオペラもそうであるが、真面目に聞こうとするとそれなりに覚悟をしなくてはならない。聴き終えるのに、ゆうに2時間以上はかかるし、貴重な休日を独りで、ヲタクのようにテレビの前で過ごす事が果たして正しい休日の使い方なのかと考え始めると、煩悶として、それだけでまた15分くらいは費やしてしまうものである。それでも未聴CDやDVDは少なからず溜まっているので何とかせねばという変な焦燥感だけは生まれている。やれば終わるのに、やらないで残しているプライオリティーの低い仕事の脅迫に似ていないこともない。もっとも、仕事と同様で、それをやらかったところで、何事も変わりはしないのだが。つまり、こういうバランスが崩れなくては次の行動に移れないものなのである。マーラーやブルックナー、それに始めて観る歌劇もそうだが、何かをしながら聴くということが私はできない。聴いていて、重要な点を聴き逃してしまうのもシャクである。聴くからにはデンと座って、ライナーとメモを片手に、グレープフルーツジュースとスナックをもう片手に、覚悟を決めるわけである。そういうわけだから、天気の悪い、そして何も予定のない休日に遂にDVDに手を出すというのは、実のところ、最初から決まりきったそれしかない的な結論であったりするのである。
  2. 社会人になってから再びクラシックを聴きはじめた頃、タワー・レコードなどに行くと入り口近くに、スーパーに置いてあるような黄色い買い物籠があるのが不思議でならなかった。私のクラシック初体験は中学生の頃であったから、なけなしのこずかいで廉価版を買うか、たまに奮発してドイツ・グラモフォンの分厚く重いLPジャケットを、それこそ宝物のように購入するのがせいぜいであった。従って、レコードとはじっくり吟味して買うものだという思い込みが私を支配していたので、カゴに放り込むようにCDを入れていく人種を発見したときは、月星人を見つけたのと同じくらいに驚いたものだ。そして、タワー・レコードに行くたびに、そのような人種が決して少ないわけではないことを知り、更に驚きを新たにしたものである。そもそも、そんなに大量に購入する方というのは、きっと商売をしている人に違いないと、当時の私は無邪気に思っていたのだが、ちょっと考えてみれば、ブルックナーなどがBGMに流れているブティックやレストランに喫茶店(あるいはバーであってもいいが)など知りもしないし、おそらく今も存在もしないだろうから、それは的外れな推測であったのである。そのうち、年間数百枚のCDを買うという知人も現れ、「カゴ買い」人種というものが、実社会の表には決して現れないところで密かにしかも逞しく生息していることを知ったのである。次に沸いた疑問は「彼らは一体それらをいつ聴くんだ」というものだが、私のかなり確度の高い推測では、彼らは開封した音盤をレーザーを通すことなく、「○△式速聴法」とかなんとかいう技法を身に付けていて、キラキラした虹色のディスク面から妙なる音楽を瞬時のうちに聴き取っているのだということである。私は今もって到底彼らの境地には及びもつかない。

ニコルソン・ベイカー「中二階」風注釈でしたが、オモシロクなくてすみません。そのうちホンモノの感想でも書きます。