2006年2月25日土曜日

岡田暁生:「西洋音楽史」を読んで

一部で話題(こことか ここ)の岡田暁生著『西洋音楽史』(中公新書)を読んでみました。

新書で西洋音楽の中世から現代までを俯瞰するなど、随分と乱暴な企画だなと最初は思ったのですが、読んでみますとこれが実に面白く、私にとっては西洋音楽というものにくっきりとしたパースペクティブを与えてくれる内容でした。左帯にあるように、まさに「流れを一望」です。

読んでいて、いたるところで成る程と思い、いかに私がクラシックファンを自認していながら、何も知らずに音楽を聴いていたのかということを思い知らせてくれました。

本書ではバッハやモーツァルト、ベートーベンなど教科書的に偉大な作曲家に多くの頁を割くことはしていません。「西洋音楽という大河」の流れの中で、彼らがどういう意味をもっていたのか、なぜ彼らのような音楽が生まれたのか。それを時代背景などを絡めながら、実に簡潔に示してくれます。

記述の仕方に説明不足や決め付けのようなものを感じる部分もありますが、それは新書という制限の中では仕方のないこと。むしろ筆者が「あとがき」で書いているように、音楽の専門家ではなく一般読者が音楽史の大きな流れを理解できるような本にしたかったという意図は、見事に成功していると思います。巻末には豊富な「文献ガイド」がありますので、本書を契機にテーマを深めることも可能です。

本書は知識を問い直すとともに、音楽の聴き方も問い直してくれます。すなわち、何も知らずに音楽を聴いていたどころか、いかに「一面的」な音楽の聴き方に自分が硬直してしまっていたのか、ということにも気付かされるのです。音楽の聴き方は、おそらくは自らの嗜好の反映ではあるものの、一方においては日本の音楽教育や西洋音楽受容の歴史にも影響しているのだろうと思い知らされます。

岡田氏は中世のグレゴリオ聖歌から現代のポピュラー音楽までを、連綿と続く「楽譜として設計された音楽」である西洋芸術音楽を語り、第七章「二○世紀に何が起きたのか」の次の言葉で締めくくっています。

カラオケに酔い、メロドラマの映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々はどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。 (P.230)

筆者は、無意識的であるにしても宗教的なもの(人間を超えた絶対的なものへの寄与)が人間に必須であるとの前提に立っているようにも思えますが、ここだけは安易に首肯できない部分です。というか、数行で決め付けるには大きすぎるテーマですので。

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