2006年5月4日木曜日

武満徹:環礁ほか/外山雄三&都響








  1. 地平線のドーリア(1966)
  2. ソプラノとオーケストラのための「環礁」(1962)
  3. 鳥は星型の庭に降りる(1977)
  4. 群島S.-21人の操車のための(1994)
  5. 弦楽器のためのコロナⅡ(1962)


  • 指揮:外山雄三 東京交響楽団 浜田理恵(S)
  • 1997年8月31日~9月4日 東京芸術劇場
  • DENON COCO70775



ここには武満徹の初期から晩年までのオーケストラ作品が収められています。しかし、武満氏の初期から中期、すなわち60年から70年代の実験的な作品群は、何度聴いても簡単に馴染めるものではありません。


いつだったか、家で映画「2001年宇宙の旅」を見ていたとき、モノリスが現れると奏でられるリゲティの音楽(《レクイエム》《アトモスフェール》)を聴いて家人曰く、「こういう耳障りで、人の気持ちをかきむしるような音楽を好きという人とは、お友達になれないわね」と。しばし絶句した私でありましたが、このアルバムでの武満徹もその類の音楽と言えないこともありません。



地平線のドーリア》に武満氏自らがプログラム・ノオトを書いています。


旋律ではなくハーモニック・ピッチ(Harmonic pitch)という考え方、リズムではなくプルセーション(Pulsation)という考えかた。新しいポリフォニーを試みる最初のデッサン。


ここに現れる音の濃淡、輪郭の融解、茫洋とした音世界、弦の特殊技法を多用した抽象的音パレットによる混沌は、たゆとうようでいて静かに流れ、しかしどこにも向かわない霧のようです。定位しない音楽は言葉にできない不安を呼び覚ましますが、しかしある瞬間に和的な響きやら美しさの片鱗が見えたりします。冒頭のハーモニック・ピッチへ回帰したときには、やっと懐かしさを覚えます。


しかし、この題名ばかりが有名な曲であっても、漠然と聴きながせば、耳に届くのは耳障りで不快な不協和音の連続でしかなく、「音楽以前」と評する人がいたとしても、その人の感性の方が正しいと思うほうが一般的な感想かもしれません。


環礁》は跳躍するソプラノパートを伴う難曲です。声楽を伴い詩を歌うからといって、武満氏の曲が親しみやすくなるということはありません。大岡信氏の詩はシュールで、文学的素養のない私には、さっぱり理解できません。浜田理恵氏のソプラノ肉声は武満氏の響きと融合可能なギリギリの一線を保っており潔いです。


と、書いて気付きました。武満氏の音楽には肉感的生々しさ、感情のストレートな奔流などが全く似合いません。音は響きそのものとして研ぎ澄まされ、武満が彫拓したかのような純粋性を持っています。彼にとって作曲とは、自然を含めたインスピレーションの中から、何かコアとなるものを聴き取り、美的な「かたち」へとつくりかえる行為であったのでしょうか。


旋律線を有さない曖昧さは、西欧ロマン主義的な音楽のあり方から、確かに自由となっています。しかし、その獲得された自由さが、場合によっては時代の足かせであり、時に古臭さを感じてしまうことも否めません。実験的、デッサン、であったことが、音楽史以上の意味を現代に与えうるのか、あるいは彼の音楽が「日本的なるもの」を考える上で今でも有効であるのか。


鳥は星形の庭に降りる》などは、まさに彼が夢で見たイメージを曲にしたものです。題名ほどには親しみやすい曲ではありませんが、1970年代後半にあって前衛的というよりは、かなり調性を意識した作品であると感じます。


それが1994年の《群島S.》となると、さらに響きが変わってきていて聴き易くなっていることに気付きます。ここではおのおのの楽器の音色と響きが相互に絡み合い、そして全体的な融和と表情の豊かさを聴くことができます。相変わらず能動的で意味的な旋律線は認められませんが、このアルバム中では唯一、武満的ロマンをストレートに感じ取ることの出来る作品かもしれません。逆に60年から70年の鋭利な武満音楽を好む人には迂遠されるものかもしれません。


アルバム最後は図形楽譜を用いた《弦楽のためのコロナⅡ》です。極めて実験的な作品なのでしょうが、1分半程度の曲ですぐに終わってしまいます。無調の不協和のテンションがこれからどこに向かうのだろうか、と思ったところで、曲は何の解決もなく終わってしまいます。今まで延々と不協和を聴かされた耳には、ちょっと物足りない程。


ということで、この音盤の感想も、何のまとめも結論もなしで、おしまいにすることとします。