2009年2月22日日曜日

神谷秀樹:強欲資本主義 ウォール街の自爆

サブプライム問題以降、新自由主義やら資本主義の転換、アメリカの凋落などが話題になっており、書店に行くとその手の本がいつも山積です。本書は、そのタイトルと読みやすさから、かなり売れているようです。

神谷氏は、外資系投資銀行で長く働き、今でもアメリカの金融ビジネスに身を置いている方。そういう人が描くアメリカの金融界はまるでB級映画を観るかのようで、とどまるところを知らない「強欲」に支配された様は、ほとんど「狂っている」としか思えません。

ウォール街の「強欲度の水準」は、われわれ日本人が日本人社会の中で考える「強欲」の感覚より、三乗か四乗のレベル

神の前では明確な「盗み」であってもまったく気にない人間が著しく増えてしまった(P.20)

これを査証するかのような「実例」が本書では列記されており、神谷氏は深い嘆きをもって語っています。その点はこのくらいにしておきましょう。彼の主眼は「資本主義の転換」ということにあるようです。

サブプライム以降のアメリカ発バブル崩壊について、神谷氏は「一つの資本主義」の終焉の到来を意味しており、人々の価値観の大きな転換期(P.24)ととらえ、パラダイムシフトの後に、いわゆる「縮小均衡」の世界がくるとしています。

そもそも資本主義というのは拡大、発展することをテーゼとしていたわけです。その資本主義の考え方について神谷氏は「何のための『成長』なのか」、「何をもって『成長』と考えるのか」といった基本的な議論(P.170)が必要なのだと主張します。

すなわち、アメリカは、借金による過剰な消費生活を見直し、身の丈にあった生活に戻る(P.165)ことしか回復の道はなく、日本においても、国内市場だけで商売するならばという前提付きで、毎年0.6%ずつ人口が減少する社会での縮小均衡点を見出してゆくことが経営のテーマである(P.186-187)

と指摘します。

更に、池田内閣の参謀として所得倍増計画を設計した経済学者として知られる下村治博士が1987年に唱えた「ゼロ成長論」の卓越を賞賛し(P.174)、

「万民のためになる資本主義」というものが提案されてくる可能性(P.196)

資本主義そのものが、これまでとは異なる価値観で再建される必要がある(P.205)

と結んでいます。

神谷氏は日経ビジネスオンラインで2006年から「日米企業往来」というコラムを連載しており、それを読むとサブプライム以前から、アメリカ主導の新自由主義に疑問を唱えていることがわかります。投資とか金融は実業たる産業や経済=生活そのものをサポートするのが仕事であり、マネーゲームが主になることは間違っていると一貫して主張しています。

神谷氏の主張は「縮小均衡」であり、これは下村博士が主張した「世界同時不況を覚悟して縮小均衡から再出発」することにほぼ同調したものです。下村氏の「日本は悪くない 悪いのはアメリカだ」は文藝春秋社より文庫版で再2009年1月に再販されています。いずれ、こちらについても触れておきましょう。

やはり考えるべきは、ポストアメリカの世界観なのでしょうか。膨大な人口を抱える中国やインドの貧困層や格差の是正が真に動き出したとしたら。その場合にこそ、新たな勢力やビジネスモデルが台頭するのかもしれません。例えばバングラディッシュのグラミン銀行とか、インドの20ドルパソコンとかにその片鱗を感じます。世界の勢力地図が本当にガラリと一変する日も遠くないのかもしれません。

ドゥダメルのチャイコフスキー交響曲第5番(DG 1week)


ドゥダメルとSBYOによる、チャイコフスキー交響曲第5番を聴いてみました。HMVレビュにあるように確かに音質(録音?)が悪い。モコモコとしていて音像がハッキリしません。湿気の多い大気を通して景色を眺めている感があります。しかしながら、その欠点を差し置いたとしても本演奏は素晴らしいものであると思います。

来日も果たしているドゥダメルについて私が知りえ、聴いたことがあるのは録音された演奏のみ。その前提で書くとしても、ドゥダメルは他の演奏と同様、単なる熱演、爆演系指揮者ではないことが分かります。しっかと計算された緻密な棒のもとに、非常に訓練されたスキルの高い演奏者が、情に流されることなく音楽を表現しているという印象です。音楽からは喜びや音楽への愛が伝わってきます。

演奏にはわざとらしいクセや恣意的なアクはなく、従ってチャイコフスキーにありがちな土砂降りの感情の吐露や自己憐憫のような湿っぽい感情も感じません。

演奏者の育った原風景が、演奏表現に与える影響は否定できないのでしょうか、あるいは私の先入観でしょうか。私は今までとは違ったチャイコフスキー像をこの曲から感じました。印象的感想を許容するとするならば、例えば第二楽章。この曲を聴くと私はたいてい、煌々とした月夜を想像します、老人の過去への憧憬とともに。しかし彼らの演奏からは、むしろ大きな大地の息吹と、沈み行く太陽と明日への希望のようなものを感じます。

終楽章の冒頭主題が終わった後、ティンパニの連打に先導される部分からの圧倒的な疾走にも驚かされます。ここに至るまでの演奏が堂々としたもので、テンポもゆったりしていただけに、この変化には目を見張る効果があります。湧き上がりうねりまくる若きエネルギーが爆発しており、まことに爽快です。冒頭の陰鬱にして湿った重たい表現から、最後の爆発まで、色彩のパレットを駆使した音楽の描き分は見事です。

『フランチェスカ・ダ・リミニ』はあまり親しんでいる曲ではないものの、この演奏を聴いてたまげました。凄まじき演奏にして音楽であります。激烈さと激しさは聴くものを翻弄するほどのパワーがあります。ラストの興奮にみちたアプローズにも納得です。

2009年2月8日日曜日

宮下誠:カラヤンがクラシックを殺した


「20世紀音楽」「20世紀美術」などの著者として知られている宮下誠氏の問題作「カラヤンがクラシックを殺した」を読んでみました。宮下氏のブログなどを読むと、相当にネット上で叩かれたようです。しかし彼の書いたメッセージについては、納得できる点も多い。

カラヤンの音楽を綺麗なだけで、人工で自己欺瞞的な「美」の幻影(P.49)とする見方に同意するクラシックファンは少なくないでしょう。そこまでは良いとしても、カラヤンの音楽を精神史的な観点の中に位置付け、戦後の世界観を支配する平板で欺瞞的な知のあり方の象徴と見なしていること、そしてカラヤンを受容した一般大衆を容赦なく、お前たちも同罪だと断罪しているところは、大きな反発と批判を浴びたように思えます。あるいはクラシックに詳しくない読者には、音楽とはかくも恐ろしいものかという拙い印象を与えたかもしれません。

もう少し詳しく書きましょう。宮下氏は20世紀から21世紀にかけての世界を荒廃した絶望的歴史風景(P.50)と捉えています。そこには世界の不条理や、そこにいる「私」の癒しがたい絶望があり、このような自己も含めた人間存在の本質的な痛み、生きることの苦しみ、「ある」ということの絶望的な重さ「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」という言葉で代表させています。

カラヤンの音楽は、「世界苦」に対して恐ろしく鈍感、同情が欠如しており、「世界苦」を欺瞞で糊塗してきた世界の象徴的存在であるがゆえに、一般大衆に与えた影響は甚大で、

カラヤンは断罪されなければならない。(P.56)

と宮下氏は主張します。そしてカラヤンの音楽が美しければ美しいほど、また聴衆=一般大衆がそれを受容するほどに、その無自覚なイノセントさは罪であるのだとします。

宮下氏の一般大衆に対する批判は、実はカラヤンのそれ以上に強烈です。例えば次のような一文です。

「大衆」はいわば自分の努力のなさ、向上心の欠如、金銭を最高の価値としてあがめたてまつる拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さ等々を棚上げにして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、或いは価値切下げを断行し、才能を、或いはアウラを突出した人間から掠め取り、食い物にし、その残骸を「お友達」感覚で賞味するという恐ろしい生き物(P.64)

彼の大衆批判はそこかしこに読み取ることができますが、このくらいで良いでしょう。強烈な批判ではありますが、私は「価値切下げ」という部分に、首肯できる主張を感じます。

さらに宮下氏が指摘した「アウラ(オーラ)」とは何でしょう。所謂「カリスマ性」みたいなものとして氏は定義していません。そういうものではなくて、観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖であるとしています。難しいですね。しかし、この部分も、おそらくは氏の主張の根幹をなす部分でしょうから引用してみますと、

それは音楽を語ることを挫折させるまさにそのもの、神秘的な、エーテルのような、あることを証明することは到底不可能だが、決してないわけでは「なさそうな」、曰く言い難い、神秘的な「何かあるもの」であり、ベンヤミンが複製技術時代には失われることを予言した(P.119-120)

ものが氏の言う「アウラ(オーラ)」だとします。カラヤンにはそれが全くないのだと。

これはいわゆる、「芸術解体」ということに繋がる大きなテーマです。今の世にあって、もはや「芸術」という言葉は、死語か悪い冗談にしかなりません。日常の中から「芸術」という言葉が排除されはじめたのは、私の記憶では80年代中頃ではなかろうかと思います。「芸術」は「アート」という言葉に置き換わり、サブカルチャーなるものが台頭してきました。そして、この頃から大衆の「欲望」があからさまに「拡大再生産」されるようになり始めたように思います。もしかすると、ここが氏の一番大きな批判の論点なのではなかろうかと思うのです。

宮下氏の「西洋音楽」に対する考え方は、いまをもっても精神芸術的あるいは哲学そのものとして捉えているようです。つまりこういうことです。音楽は悟性の歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもありえるものととらえ、悟性による認識を通じて音楽を、いわば主体的、積極的、自覚的に聴く~そのような聴き方を聴き手に迫っている(P.34)ものであるとしています。宮下氏は、音楽全般の価値が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」こそ悪い冗談(P.277)であり、

悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている(P.277)

と最後まで、聴き手をも断罪しまくります。

氏がカラヤンの対極として、クレンペラーとケーゲルを上げていることは、私にはさほど重要なこととは思われません。ここを強調すると、いわゆるクラヲタ系批評家と変らなくなりますし。

宮下氏は1961年生まれですから、私と同年齢。その氏がかくも現代社会と今を生きる大衆文化に深く絶望していること、そのことにこそ、私は驚き、そして自省の念を覚えます。確かに氏の指摘をそのまま受け入れるならば、私たちは他人や世界の痛みを遠ざけられるような愚昧な情報に溢れており、それゆえ利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることを当然のこととして、快楽的、享楽的に生きていることになります。

これらの原因を、全て「カラヤン」に象徴することには、かなり無理があるものの、彼が「カラヤン的なるもの」として批判したものに対して、自覚的になることは重要であろうとは思います。ただし、この手の自己批判は、全て自分が受け入れる必要があるだけに、アクションとして結びつかない限り、最終的には自己矛盾と自己欺瞞に行き着くため厄介です。

いずれにしても氏の嘆きと希望がどこまで伝わったかは、はなはだ疑問には思うところです。このように考えると、本書のタイトルさえ誤解を招くものであったと思わざるを得ません。

2009年2月6日金曜日

副島隆彦:恐慌前夜


遅きに失した感はあるものの、金融預言者を自認する副島氏の著作を読んでみました。彼の金融に関する予言が当たっているか否かについては、私は論評しませんけど、言っていることは、非常に分かりやすく単純で面白く読みました(すぐに読めるし)。多くの読者をつかむのも分かります。刺激的な程、読者層にウケますから。

主旨を単純化すると、「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」は今後も数ヶ月に一度ずつ起きてゆく。アメリカ発の大恐慌突入の前に、預金封鎖が行われる。多くの法律が急速にバタバタと改正され、緊急の金融統制体制に入る。これからは銀行が一番危ない時代、信用できない。だから、そうならないうちに、しっかり自分の資産を実物(金や不動産や食料)に今のうちに移し変えておきなさい、悪いことは言わない、私のことを信じなさい、みたいな事が繰り返し述べられています。

で、最近の近著が「副島隆彦の今こそ金を買う」です(未読)。投資や個人資産の保護に関しては、それぞれの経済状況の中で自分に最適なリスク・ヘッジを考える必要があるため、ひとつの見方として参考にはしますが、だからといって、すぐに金相場に手を出そうとは、私の場合考えないでしょうね、そんなに現金資産もないし。

副島氏の姿勢で明確なのは、攻撃的なまでの米国批判。特にアメリカの手先となって動いたと彼が見なす竹中元金融相や、10年前からアメリカが日本に強制して作った金融庁に対する批判は強烈です。現代のゲシュタポゲハイム・シュタートポリッツァイ(Geheime Staatspolizei ドイツナチス政権時の国家秘密警察現代の特高警察政治警察(思想警察)実質的な弾圧機関などなど、かなり手厳しい。竹中路線の批判などは、多くのブログなどで話題にされていますから、私は本書の覚書程度にとどめておきます。金融庁は「怖いトコロ」なのだということで。

ただ、あまりにもアメリカの顔色ばかり伺う日本政治と、アメリカの風邪が肺炎になるくらいにダメージを受ける日本経済に、憤りを覚える人は確実に増えていると思います。そういう背景が、副島氏を支持する人が増える一因なのだろうと思いました。

副島氏は世界の金融界がロックフェラーやロスチャイルドによって支配されていることにも軽く言及しています。金融界はデイヴィッド・ロックフェラーと、甥のジェイ・ロックフェラーの骨肉の戦いである。デイヴィッドはシティ・バンクの実質のオーナー、ジェイはゴールドマン・サックスのオーナー。この骨肉の争いは今やはっきりとジェイ・ロックフェラーに軍配が上がりつつある(P.172)らしい。ちなみに三井住友銀行の実質筆頭株主はジェイ。三菱東京UFJ銀行は、三菱=ロックフェラーの130年に及ぶ運命と宿命として(P.162)、シティ救済を断れないのだと。

ふーん、と思いながら、こういうテの本は気楽にウィスキーでも舐めながら読むのが正しいか。この手の裏話にも、とんと疎いですから。

2009年2月2日月曜日

團十郎の歌舞伎案内


團十郎が青山学院大学で歌舞伎についての特別講義を行った内容を本にしたものです。團十郎の歌舞伎に対する考え方が窺い知しることができ、大変に参考になる本です。

私の少ない観劇の経験からしても、歌舞伎って何だろうと考えると答えに窮する。歌舞伎とは何かを定義することは、大変難しいのではないかと思っています。一般の人が想像する、いわゆる「時代物」だけではなく、歌舞伎は長い年月の中で色々なものを吸収して変化してきました。例えば本書でも紹介されているように、七代目團十郎(1791~1859年)が歌舞伎の舞台に能を取り入れました。

七代目が「勧進帳」をつくっていなかったら、歌舞伎に「松羽目物」という発想が生まれていたか(P.64)

歌舞伎像はひとつのイメージを結ぶにはいたらない。根本的に歌舞伎とは「その時代のお客さまの嗜好によって変化して、左右されて、発展してきた庶民の芸能」といえる(P.109)

と説明しています。

そういう歌舞伎であっても、團十郎は「格」ということを大切にしています。團十郎家にとって、やってよいことと悪いことがある(P.57)と、四代目團十郎(1711~1778年)の言葉を引用し、例えば2008年1月 海老蔵が演じたラスベガスのイリュージョンを使った演出について疑問を呈し(P.96)ています。何でもアリではないのだと、それが歌舞伎であり「格」なのだと言うのです。ここはきわめて重要だと思いまし、私もこの意見には大きく同意します。

例えば「リアル」ということについて。歌舞伎も江戸時代から明治にかけて、西洋風のものが入ってきたために、真実を真実としてみせる(P.81)という方向へシフトしたことがあったと。実際に舞台に水を張ってみるような演出はリアルだけど、そこに能があるのかなと疑問に思う(P.234)と團十郎丈は書いています。

歌舞伎に演出家というものがいないことに対しても、日本独特の成り立ちであり、西洋がそうだからと日本もそうしなければいけないということはないと書いています(P.106-107)。どこまで保守的になり、どこまで革新的になるか。まさにそのバランス感覚こそが「格」ということに表されているのかもしれません。

團十郎丈が謙虚であり誠実であると思うのはこういうところです。私たちはここで満足です、これ以上はもういいですとし、それ以上は欲張らないことが重要であるとも書ています。

歌舞伎は日本語という文化圏の中でやっているかぎり、それ以上は背伸びしたくてもできない。

いい意味で"小ささ"を保ちやすい(P.234-235)

この指摘は、ブログ内田樹の研究室で最近読んだ『「内向き」で何か問題でも?』と微妙にシンクロしました。グローバル化とか言うけれど、内向きで飯が食えれば無理にグローバル化しても意味がない、みたいな主張です。

歌舞伎は日本で行い、日本語で実施することによって世界に対し意味を持っています。日本人よりもよほど外国人の方が歌舞伎や能に詳しかったりします。もっともそれだけでは、日本人としてさびしい限りであることは否定できません。

自国の伝統ある文化をしっかりと見つめ、次の世代にどのような形で伝え継承してゆくのか。これは歌舞伎役者だけではなく、歌舞伎を観る(あるいは観ないという選択にしても)私たちに課せられた課題であると言えるのではないでしょうか。

玉三郎の「鷺娘」、伝説化・・・

先月の歌舞伎座での玉三郎の「鷺娘」について、ナマ「鷺娘」もそのうち「伝説」になるでしょう。
と書いたのですけど、当たってしまいましたね。

ブログ「六条亭の東屋」で知りましたが、玉三郎自ら、もう歌舞伎座でも新歌舞伎座でも「鷺娘」は踊らない(踊れない)と書いています。

勿論芸直は追究して有り余るものでございますし、これからまだまだ深めていけることもありましょうけれども、娘物の舞踊として私の年齢と肉体を考えましても今回の公演で線を引かせて頂くことに致しました。

玉三郎 公式サイトでの「今月のコメント」です。潔いといえば潔く、寂しいといえば寂しい。しかし観ておいてよかったと今は素直に僥倖に感謝するのみ。