團十郎が青山学院大学で歌舞伎についての特別講義を行った内容を本にしたものです。團十郎の歌舞伎に対する考え方が窺い知しることができ、大変に参考になる本です。
私の少ない観劇の経験からしても、歌舞伎って何だろうと考えると答えに窮する。歌舞伎とは何かを定義することは、大変難しいのではないかと思っています。一般の人が想像する、いわゆる「時代物」だけではなく、歌舞伎は長い年月の中で色々なものを吸収して変化してきました。例えば本書でも紹介されているように、七代目團十郎(1791~1859年)が歌舞伎の舞台に能を取り入れました。
七代目が「勧進帳」をつくっていなかったら、歌舞伎に「松羽目物」という発想が生まれていたか(P.64)
歌舞伎像はひとつのイメージを結ぶにはいたらない。根本的に歌舞伎とは「その時代のお客さまの嗜好によって変化して、左右されて、発展してきた庶民の芸能」といえる(P.109)
と説明しています。
そういう歌舞伎であっても、團十郎は「格」ということを大切にしています。團十郎家にとって、やってよいことと悪いことがある(P.57)
と、四代目團十郎(1711~1778年)の言葉を引用し、例えば2008年1月 海老蔵が演じたラスベガスのイリュージョンを使った演出について疑問を呈し(P.96)ています。何でもアリではないのだと、それが歌舞伎であり「格」なのだと言うのです。ここはきわめて重要だと思いまし、私もこの意見には大きく同意します。
例えば「リアル」ということについて。歌舞伎も江戸時代から明治にかけて、西洋風のものが入ってきたために、真実を真実としてみせる(P.81)
という方向へシフトしたことがあったと。実際に舞台に水を張ってみるような演出はリアルだけど、そこに能があるのかなと疑問に思う(P.234)
と團十郎丈は書いています。
歌舞伎に演出家というものがいないことに対しても、日本独特の成り立ちであり、西洋がそうだからと日本もそうしなければいけないということはないと書いています(P.106-107)。どこまで保守的になり、どこまで革新的になるか。まさにそのバランス感覚こそが「格」ということに表されているのかもしれません。
團十郎丈が謙虚であり誠実であると思うのはこういうところです。私たちはここで満足です、これ以上はもういいです
とし、それ以上は欲張らない
ことが重要であるとも書ています。
歌舞伎は日本語という文化圏の中でやっているかぎり、それ以上は背伸びしたくてもできない。
いい意味で"小ささ"を保ちやすい(P.234-235)
この指摘は、ブログ内田樹の研究室で最近読んだ『「内向き」で何か問題でも?』と微妙にシンクロしました。グローバル化とか言うけれど、内向きで飯が食えれば無理にグローバル化しても意味がない、みたいな主張です。
歌舞伎は日本で行い、日本語で実施することによって世界に対し意味を持っています。日本人よりもよほど外国人の方が歌舞伎や能に詳しかったりします。もっともそれだけでは、日本人としてさびしい限りであることは否定できません。
自国の伝統ある文化をしっかりと見つめ、次の世代にどのような形で伝え継承してゆくのか。これは歌舞伎役者だけではなく、歌舞伎を観る(あるいは観ないという選択にしても)私たちに課せられた課題であると言えるのではないでしょうか。
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