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2002年12月11日水曜日

日本の防衛ということ

12月8日、イラクは国連に対し大量破壊兵器に対する申告書を提出した( accurate, full, and complete declaretion on time )。悪の枢軸とイラクを名指しし、平和維持のために西側諸国の同意をとりつけての結果だ。日本は、数日前にイージス艦のインド洋派遣を決定した。こういう動きを見るに付け、日本の独立国としてのあり方について考える。

憲法改正、自衛隊問題などは古くから議論されているが、私達は「まともな議論」をしてこなかったのではないか、ということを思い始めた。私は5月に、「有事関連法案とは何なのか」として意見箱に駄文を掲載した。そのときはどちらかというと、法制整備へ懸念を示すスタンスであった。しかし、今は、むしろ積極的に法整備すべきなのかもしれないとスタンスがずれてきている。政府の方針を全面肯定しているわけではない、法整備が前提というよりも健全な議論をすべきだと思うのだ。

憲法改正を口にする人には「タカ派」「右翼」というレッテルを貼りたがるように、わたしたちは防衛問題にアレルギー感情を持ってはいないだろうか。これは日本の教育の賜物なのかもしれない。日本国憲法が米国の押し付けであるか、あるいは日本を侵略国と決め付けた東京裁判が、戦勝国の独断的な裁判であったか、ここらあたりから議論は紛糾し始める。

平和憲法の精神への対立軸を全て「タカ派」「右翼」的なものとひとくくりにしてしまうことは、議論を先に進ませにくくしている。侵略戦争をしないということと、自国を防衛する軍隊を保持しないということは別物だと思う。およそ力を有しない独立国の平和などは幻想でしかないという者もいる。憲法の「国際紛争解決のための武力行使の放棄」が幻想なのだろうか。日本国憲法がうたうのは「絶対的平和主義」なのだから、既にして自衛隊は憲法違反なのである。自衛隊は黙認しながらも、他の政策の是非を問うことは筋が通らないように思える。議論は、どこまでも拡大曲解される解釈論に終始してしまう。

侵略としての戦争放棄は誰もが認めることだ。しかし、最近のテロ行為を考えるにつけ「侵略」の定義さえ難しい。イスラム社会は西側諸国に「侵略されている」と考えてはいないか。米英は今も昔も「侵略戦争」などはしていないと考えるだろう。第二次世界大戦の日本も「植民地開放戦争であり侵略戦争ではない」と主張する人がいる。しかし、それは経済的に優位でかつ、軍隊を派遣した側の論理でしかないのではなかろうか。

自衛隊を軍隊と呼ばないということも、事態を見えにくくしている。すでに米国、ロシアに次ぐ世界第三の防衛予算を使う国の自衛隊がなぜ「軍隊」ではないのか。自国防衛の際の命令系統を含め、迅速な対応ができるような法整備は確かに必要である。今のままでは役に立たない放蕩息子だ。ただし、である。あくまでも自国民の安全と平和を守るということが大前提だ。

国際社会における責務を考えた場合「自国領土領海を侵犯されたときのみ行使する軍事力」という考え方も通りにくい。自国が攻撃されないように、あるいは大量の難民が流入しないよう、軍事的手段を裏づけに他国政権を維持あるいは打倒する、という考え方に妥当性があるか、これも分かりにくい。

自国を自分で守るということを考え始めたときに、当然ではあるが国民に義務が発生する。どういう義務負担かも含め、考えなくてはならない。

以上の考えが、すべて宙に浮いたまま着地できない。安易かつ感情的にに「子供を戦場にはやりたくない」「戦争は殺し合いだ」「戦争絶対反対」という議論に流れてしまう。戦争を知るものは「戦争を知らない世代が、言葉遊びをしている」と揶揄する。

それでも、いやだからこそ、私達は、もう一度、第二次世界大戦の意味からはじめ、日米安保、憲法、自衛隊、そして国というものを根本から考え直さなくてはならないのではなかろうか。私には、どの見解がもっとも好ましいかさえ今は見えない。そして、日本を左右する政治家のスタンスも、まったく見えないという悲劇。


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