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2005年5月23日月曜日

戸板康二:歌舞伎への招待



先に触れた戸板康二の「歌舞伎への招待」「続 歌舞伎への招待」が岩波現代文庫で復刊されているのを知り、早速入手して読んでみました。

全くの私見ですが、戸板康二氏と吉田秀和にどことなく類似点を感じるのは私だけでしょうか。(>無理に音楽ネタに振らないと歌舞伎サイトになっちまう最近のエントリ・・・)

  • 戸板康二監「歌舞伎への招待」岩波現代文庫 ISBN:4006020805
  • 戸板康二監「続歌舞伎への招待」岩波現代文庫 ISBN:4006020813

「歌舞伎への招待」は昭和25年に暮らしの手帖社の前身である「衣裳研究所」から刊行され、歌舞伎入門の書としてばかりではなく、歌舞伎評論の先がけともなった本であると理解しています。内容は戸口氏が僕の立場はエトランゼの立場であると書くように、初めて歌舞伎を接する人にも分かりやすいように書かれています。(何で読んだか忘れましたが、戸板氏は、この本をそのまま英訳しても良いような文章と内容にしたのですとか)

例えば「花道」において

六法ほど、花道というものをうまく利用した演技はない。
僕はひそかに、これを、歌舞伎におけるカデンツァと呼んでいる。

という有名な文章から分かるように、歌舞伎を外から見る視点が新鮮です。

内容的にはこの本より以前に発刊された「わが歌舞伎」「続わが歌舞伎」と重複する内容も多いのですが、早稲田演劇博物館所蔵の写真などをふんだんに用いている本書は、昔の歌舞伎の雰囲気や歌舞伎役者の面立ちを伺い知る点でも、極めて貴重なものであると言えます。(写真がもう少し鮮明で大きければ良いのですが・・・文庫本ですから仕方なしか)

解説は山川静夫氏が書いていますが、歌舞伎は学問ではない。娯楽である。の言葉は的を得ています。しかし、たた漠然と観ているだけでは、平成の現代では娯楽足りえないのも歌舞伎。ここ数日、歌舞伎関連の本を読むにつけ、歌舞伎が江戸の庶民の嗜好を踏まえながら、いかに柔軟に発展してきたか、ということが何となく分かってきました。

また、歌舞伎の演目を読み解くことで、江戸時代から明治にかけての庶民の常識的な教養や生活振りも伺う事ができ、まあ、そういう点では、余りにも知らないことが多すぎる自らの無知を恥ずるとともに、興味も尽きず、娯楽をするのも骨が折れるなァと思うのではありました。(そもそも紹介されている演目の、ほとんどを、まだ観た事がないんですから)

2005年5月22日日曜日

歌舞伎とは何なのか


中村勘三郎による「野田版研辰の討たれ」を観てから、歌舞伎ってなんだろうと思い、今日は書店と豊島区中央図書館をハシゴして、つらつらと歌舞伎関連の本を斜め読みです。


  • 吉田弥生「江戸歌舞伎の残照」 ISBN:483557947X
  • 橋本治「大江戸歌舞伎はこんなもの」筑摩書房 ISBN:4480873295
  • 戸板康二監修「歌舞伎鑑賞入門」創元社 ISBN:4422700677
  • 岩波講座 歌舞伎・文楽 第4巻「歌舞伎文化の諸相」 ISBN:4000107844



橋本氏いわく


歌舞伎なんていうものは、そもそもが「ルールに取仕切られた混乱のページェント」だったりもする訳

戸板氏いわく


歌舞伎の第一義は戯曲になく、俳優の演技における美の追求にあったと見なければならない

分かったような分からないような気分ですが、学者ではありませんから、このくらいの認識でよしとしましょう。今日読んだ本の中では、橋本本が秀逸です。相変わらずの橋本節ですが、色々斜め読みした中では圧倒的な分かりやすさです。特に「時代物」「世話物」「時代世話物」の概念はまさに彼ならではのものです。


Flamandさんのコメントにあった特に歌舞伎の世界は先の戦争後に存続そのものの危機的状況を迎えたということも気になったので簡単に調べてみました。


昭和19年3月の戦時中「高級享楽停止」の名の下に全国19の劇場が閉鎖されます。翌20年には空襲で歌舞伎座が消失、そして十五世羽座衛門の死と続きます。戦後はGHQにより封建制度を賛美するような内容の歌舞伎の上演が禁止される憂き目に会いました。これを救ったのは他ならぬマッカーサーの副官として日本語通訳を務めたフォービアン・バワーズ(来日当時二十八歳)のアメリカ陸軍少佐であったというのですから、不思議なものです。


しかし戦後においても戸板氏が指摘するように歌舞伎は古くさい、愚劣だ、見るに耐えないといふやうな意見が多かったのだそうです。昭和24年は歌舞伎の名優を相次いで失っています。七代目幸四郎、七代目宗十郎、そして六代目尾上菊五郎です。戸板康二の「歌舞伎への招待」が発刊されたのは、そんな歌舞伎の衰退が懸念された昭和25年になるわけです。


なかなか勉強になりましたです、はい。難しいことなど考えなくても楽しめるのも歌舞伎ですが、深く知るともっと面白いのも歌舞伎でありますな。

2005年5月20日金曜日

歌舞伎座:五月大歌舞伎 野田版研辰の討たれ


夜の部の「野田版研辰の討たれ」は評価の分かれる演目だと思います。初演当時ほどの反響や批判はさすがにもう薄れてきているように思えますが、それでも「果たしてこれは歌舞伎なのか」という議論は今でもあると思います。私のような新参者が、歌舞伎の世界に子供の頃から浸かりきってきた人の芸をとやかく論ずることはナンセンスだとは思うのですが、時間が経つと考え方も変わりますから、現時点での感想を素直にまとめておくとします。


私はあまりテレビを見ませんので、最近のお笑い系の新ネタどころか芸能界の動きには極めて疎い人間です。それでも次から次へと繰り広げられる演出や台詞には(分らない部分もありますが)圧倒されましたし、今までの歌舞伎には全く見られなかったエネルギーや若さを感じますから、数ある歌舞伎演目のひとつとして、こういう芝居があってもよいのかなと思います。

五月夜の部の演目は、人気古典歌舞伎の「義経千本桜」と玉三郎の「鷺娘」、そして「野田版」ですから、現代見ることのできる「カブキ」の最高峰が出揃ったような感さえありました。三ヵ月の襲名披露公演を振り返ってみるに、歌舞伎の持つ表現世界の広さと奥深さをまざまざと見せ付けられました。歌舞伎がまさに九頭龍(ヒュドラ)にも例えられる訳も分ろうというものです。

夜の部最初に演じられた「義経千本桜 川連法眼館の場」は非常にケレン味溢れる芝居です。ケレンとは俗受けを狙って演じられる芸(「肩透かし」や「仕掛」「早替り」など観客の意表をつく演出)のことを指します。歌舞伎が江戸時代においては武士の能と対照的に、庶民の芝居であったことを考えれば、筋とは関係のないところのケレンそのものを楽しむという観方もあったのだと思います。歌舞伎は論理的な「筋」をあまり重視せず、型の美学を見せるものであるような気がしていますから。(これとて一面的な歌舞伎観ではあります)

そのケレン味たっぷりの「川連法眼館の場」の後だというのに、「野田版研辰の討たれ」を観てしまうと、それまでの芝居の細やかな所作の印象などが消しとんでしまいます。玉三郎の「鷺娘」の苦悩と悲しみと嗜虐美さえも忘却の彼方に行ってしまうほど、とにかく「野田版」には全く異質なものを感じました。

「野田版研辰の討たれ」が歌舞伎であるのかということは、観ながらずっと考えていたことです。八代目幸四郎(初代白鸚)は「歌舞伎役者が演じればそれは歌舞伎です」と答えたらしいですが、果たしてそうなのでしょうか。赤穂浪士の討ち入り事件を皆で「聞いたか」「聞いたか」と初っ端から噂話するところなど実に歌舞伎風ですし、義太夫も登場するので確かに歌舞伎らしいのですが、それでも私は「歌舞伎風野田劇」という感をぬぐえませんでした。

全員が動き駆け回る演出方法も、二人にスポットライトが当たり語る場面も、全員がダンスのようなステップを踏む場面も、現代劇では見慣れたものかもしれませんが歌舞伎においては斬新です。歌舞伎を歌舞伎たらしめている見得にしても、福助が「天晴れぢゃ」と言って切った素っ頓狂な見得を、更に「お裾が・・・」と言ってツッコミを入たりするのですが、これではギャグ・マンガです。これらの演技からは、歌舞伎独特の間や美学が感じ取れず、観ていてちょっと疲れる。いったいドタバタ喜劇をわざわざ歌舞伎座で演ずる意味は何なのか、首をかしげる気持ちも少なくはないです。

夢の遊民社の野田を見たのは、恥ずかしながらもう20年も前です。下北沢の本多劇場で観た野田の言葉遊びとスピーディーな劇には驚嘆しましたし、好きか嫌いかは別として強烈なエネルギーを感じたものです。野田氏と勘九郎氏の出会いは結構古いらしく、何かの本によりますと、意気投合した二人が夜中の歌舞伎座に忍び込み、野田氏が「ここで芝居をやりたい!」と叫んで舞台の上を走り回ったときから「野田版~」は生まれたのだそうです。廻舞台を使った演出は、意表を付くもので、かつ極めて効果的であり、なるほどと舌を巻きました。

実のところ自分の中でも賛否両論なのですが、全体としては「観客をわしづかみにしてしまう点、野田秀樹はやはり天才だな」とは思います。劇としての密度も高く、テーマも現代的で上出来でありましたから、観ておいて良かったと思います。でも、多くの感想にあるように「楽しくて仕方が無い」「面白すぎ」「最後にホロリ」などとは素直には思えず、面白いとは思いながらも、野田のあざとさが見えてしまい、そうするともう、そこに踊らされるのが何だか阿呆らしくなってしまうのも確か。

もっとも、この芝居を評価する人には、野田劇か歌舞伎かという議論さえが不毛でありましょう。面白くて何がダメなのか、現代的な要素を取り入れて発展してゆくのが歌舞伎のありようではないかと言うでしょうね。歌舞伎とは何かということになると、勉強不足な私には実はさっぱりでして、ヒュドラに例えられるほどに捉えどころのないのが歌舞伎であると先ほど書いたばかりです。間や歌舞伎の美学がないと書きましたが、このスピーディーさも現代の間と美学であると言えないこともないわけですし。

勘三郎の「野田版」にかけた熱意は彼の発言から十分に伝わってきますし、勘三郎が歌舞伎の将来を誰よりも考えていることも理解はしています。しかし、こういう劇が心底に楽しまれるのだとしたら、これは歌舞伎にとって幸福なことなのか、あるいは不幸なことなのかと思ってしまうのです。これをきっかけにリピーターが増えれば、これほど幸せなことはないのでしょうが。

概して批判的な意見ですが、私は結構保守的でクソマジメなところがありますから、こういう感想を持つのも仕方ないでしょうな。翻って、このごろ話題さっぱりな、クラシック界の現状についてもつらつらと考えたりしてしまったので、こんな文章になっちまいました。以上。

てぬぐいぶろ」さんのブログに、はからずもその3。 歌舞伎でアルか?というエントリがありましたので紹介しておきましょう。

古典にも面白みを感じますが、面白いと思うのはそれが古典だからではないでしょう。
なかには「ふんっ」て思う作品も古典と呼ばれていたりするわけで(私見)。
 :
別に「野田版」に心酔しているわけではありませんが、「歌舞伎座では伝統を重んじた歌舞伎を」と声高に云う方は、
��通し狂言」のみを歌舞伎として認めるのか、
と疑問に思い……、ちょっと鼻息荒くしてみました。

歌舞伎に疎い私は「通し狂言」だけが「伝統を重んじた」ものであるとの認識はありませんが、歌舞伎として認められるには何が要件なんだろう、とそれが気になっているだけです。Flamandさんがコメントで書かれている継承・破壊・創造などというサイクルも理解しますが、どこまでが創造的破壊なのかの見極めは私にはついていません。歌舞伎に接している以上、勘三郎からは目が放せないといったところでしょうか。

2005年5月16日月曜日

歌舞伎座:五月大歌舞伎 夜の部


5月の歌舞伎座も中村勘三郎襲名披露公演でいよいよ賑わっています。前売り券はそれこそあっと言う間に売り切れ、幕見席であっても2時間前に歌舞伎座に着くようでは立見必死なのを知り、本日は何と12時半から列に並んで夜の部を観てきました。

この時間ですと、まだ昼の部の幕見のお客さんが並んでいます。夜の部は16時10分から発売ですから、我ながら頭がオカシイのではないかとは思ったのものの、東京に居ますと2時間くらい並ぶのは平気になりましたので、ハナシの種に3時間半くらい並んでみようかと・・・。それでも歌舞伎座に着いたときには、既に5~60人もの列になっておりました。係の方によると「早い人で朝の8時半から」並んでいたそうです、やれやれ。

それもこれも、夜の演目が菊五郎による「義経千本桜 川連法眼館の場」、玉三郎による「鷺娘」、そして「野田版研辰の討たれ」なものですから、これを見逃してなるものかという気になったからであります。(昼の「菅原伝授手習鑑」と「芝居前」も観たかったが・・・もう気力なし)


さて、前置きが長くなりましたが、前評判が高いだけあり「野田版研辰の討たれ」が他を圧倒していたという印象です。野田秀樹の演出ですから、歌舞伎を見慣れた目には非常にスピーディでダイナミックです。特に幕が引かれてから赤穂浪士の討ち入りから道場の場面にかけての演出は(歌舞伎以外では目新しい物ではないものの)うまいなあと、のっけから感心。テーマの取り方も、大衆の軽薄さや無責任さをあぶり出し、更に「仇討ち」の意義に斬り込んだ点、現代的な視点を見せています。

随所にギャグがちりばめられており(例えば芝のぶのギター侍ネタとか)、言葉遊びの天才野田と吉本好きの勘三郎ならではといったところ。何の予備知識がなくても楽しめるという点から歌舞伎初心者(>私もそうですが)にもウケたわけが分ります。

もっとも「野田版研辰の討たれ」は、歌舞伎というものを考えさせてくれる演目でしたので、ヒマを見つけてまた書くこととします。

義経千本桜 川連法眼館の場」は、狐の恩返しみたいな演目であります。渡辺保さんが芸の完成度ということでいえば、今月一番の出来である。第一に菊五郎の忠信が、菊五郎型の古格を守って、手本となるべき舞台だからである。というだけあり見ごたえ十分。すでに六十を過ぎてあの演技というのには驚きます。「桓武天皇の御宇~」などの狐言葉が濁ってイマひとつだったのは、ご愛嬌でしょうか。

玉三郎の「鷺娘」はメトロポリタン歌劇場で絶賛されたというもので、それはそれは見事な舞踊。照明効果と衣装の引き抜きが見事にマッチして、幻想的なまでの美の世界を表現していました。4月の勘三郎による「娘道成寺」と並んで、娘心をこめた踊りですが、醸し出す雰囲気は全く別物で、「玉三郎版鷺娘」といった趣でしょうか。確かに一見の価値ありですが、幕見席では遠すぎて十分に鑑賞でききれないのが残念ではありました。

蛇足ですが、16時近くそろそろ昼の公演がひけると思った時、突如突風とともに凄まじい雷雨となました。(こんな凄まじい雨、久しぶりに見た!)あまりの突然さに列の皆々騒然、歌舞伎座の前の甘栗売りのテントなど吹き飛びそうですし、幕見席列上のビニールのテントにはホースでぶちまけているとしか思えないような雨がザバザバと落ちてきて、それはそれは爽快を通り越し恐怖さえ感じるような雨でありました。雹まで降ったんですな。

日本列島は15日、気圧の谷が上空を通過した影響などで、東北から関東甲信、北陸の広範囲で大気が不安定になり、東京・大手町では午後3時50分ごろから同4時ごろまで雷を伴った激しい雨が降り、ひょうも観測された。

 気象庁によると、都心でひょうが観測されたのは、2000年7月以来。雨は10分間雨量で8ミリだったが、同庁は「短い間に一気に降ったようだ」と説明している。

2005年5月13日金曜日

ブログについての春秋の話題

Six Apartの ひらた だいじ さんのブログdh's memorandaにおいて日経新聞 4月30日の春秋の「ブログに関する記事」が紹介されていました。




ブロガーが国内で200万人も居ることに触れ、


▼有名になりたいのか。自分に酔っているのか。書き込みに精を出す40代の男性に聞くと答えは意外だった。「誰も読んでくれなくていい」。何者かが自分を見ているという状態をつくり出す。そこで体験や思いを言葉にすれば自らを律することができ、仕事や生活に励みも生まれるという。


なるほどねえと、再びしみじみ。世には「誰も読んでくれなくたっていい」って思う、健気というか控え目な方がウヨウヨ居るってことですか。と翻って自分のことを考えて、なぜブログ(非ブログ時代も含めてだが)なら続くのか。

自分を律したいと思ったことはさらさらないですし、春秋記者が指摘するボクやワタシの話を聞いてほしい自称評論家やタレントだとも思いませんが、ネットという実態のない壁の「向こう側」壁に延々と語りかけることそのものに、何かしらの精神的安定を求めているのだとしたら、ある種のそら寒い病理を感じないわけではありません。


書く内容がなくなると、ちょっとサビシイ思いをしますが、だからと言って人のエントリを「盗用」するのも何なので、その時は止めるまでです。時々自分でもアホらしくなるし。


2005年5月10日火曜日

テンシュテット/マーラー:交響曲 第7番 「夜の歌」


本日は四谷でポルトガル料理を食し非常に良い心持。GW明け早々から、滅多矢鱈と忙しいハメに陥ることもなく何よりと心をなでおろし、帰宅してからそういえばと以前に買っていたテンシュテットのマーラー 交響曲 第7番を聴く。

テンシュテット/マーラー:交響曲 第7番「夜の歌」
  1. 第1楽章 ゆるやかに~アレグロ・リゾルート・マ・ノン・トロッポ 24'07"
  2. 第2楽章 夜の歌Ⅰ(アレグロ・モデラート) 17'32"
  3. 第3楽章 スケルツォ(影のように) 11'10"
  4. 第4楽章 夜の歌Ⅱ(アンダンテ・アモローソ) 15'30"
  5. 第5楽章 ロンド=フィナーレ、アレグロ・オルディナリオ 19'53"
  • クラウス・テンシュテット指揮 ロンドンpo
  • 1993年5月 Live ロイヤル・フェスティバル・ホール
  • EMI決定1300 TOCE13563.64

私のマーラー遍歴など、とても人に言えるほどのものではなく、未だにマーラーの全交響曲を空でイメージできる境地には程遠い。であるからしてマーラーの7番も、以前に聴いたのは一体いつのことであったか、そもそも、どういう曲だったかほとんど思い出すことができない。曲の難解なイメージと「夜の歌」という標題に惑わされ、霧の彼方にぼんやりと浮かぶ音楽というのがこの曲の印象だった。

そういえば、かなり以前に札幌のPMFの屋外コンサートでの演目で「夜の歌」が演じられたことがあった。妻と当時小学低学年の息子を連れて行った件のコンサートは、その実死ぬほど退屈で心の底から来たのが失敗だと思った。演奏は全く覚えておらず、鳥のさえずりばかりが気になったことが唯一の印象であった。

そういうわけなので、テンシュテットの本盤が極めて名盤であることは知ってはいたものの、今ままで敬遠してしまっていた。たまたま気分の酔い今日に聴き始めたときも、再び退屈地獄に陥るかもしれないと懸念を抱いていたのだが・・・果たして結果はといえば・・・げに凄まじき演奏であり、またこの曲の持つ魅力の一旦が垣間見えた気になった。

徹底的な「明」の世界を提示している第5楽章など続けて数度も聴いてしまったほどだ。この単純なほどの明るさと分かりやすさは、マーラーの憧憬なのか捩れた諧謔なのか判然としないものの、ただひたすらに圧倒的されてしまうことは否定できない。楽章冒頭のティンパニの連打など笑ってしまうほどの決然とした響きで驚く。この音楽のありようは、マーラーのこれまでに歩んできた道程を考えると、少し楽天すぎぬのか?という疑問が沸くのだが、それを書けるほどにはまだ曲に馴染んでいない。

それにしてもテンシュテットの演奏である。打楽器のこれでもかという迫力、トロンボーンの音色、トランペットの勝利に似た響き、怒涛のがぶり寄りのような勢いは凄まじく、この楽章だけ取り出して聴いたときに感じる爽快感は罪作りであり、ラスト近くは随喜の涙をこらえることが困難でさえある。

いや考えてみると、どの楽章も、「それだけ取り出して聴いて完結」しているのではないだろうか、と思い始めた。第7番の曲の構造を解説するとき、ABCBAの対照的な楽章構成だとか、1楽章のテーマが終楽章の結尾で現れ全曲に統一感を与えているなどと説明されるが、演奏時間が1時間半にもなんなんとする曲のテーマを覚えていられるほどに果たして聴衆は耳が良いのか。むしろ楽章を独立して聴いた方が曲の持つ意味を理解できるのかもしれない。

「夜の歌」という標題に騙され、今まで暗い曲というイメージを抱いていたが、実際はそれほどに暗澹たる曲でもない。むしろ脈絡のない思いが入り乱れる夜の夢想のような趣だ。また第5楽章は確かに聴きやすいが、この曲の魅力を探るには、やはりそれ以前の楽章を丹念に聴く必要を感じる。

それに何と言ってもこの演奏はテンシュテット最後の演奏会のものである。その点からも、とても疎かには聴けないのだが、グダグダといい加減な感想など書かずに、syuzoさんのページでも熟読して再聴でもしてみることにしよう。ポルトガルワイン(ポートワインを含む)によるほろ酔い気分での雑エントリでありました。

2005年5月9日月曜日

カブキを見にゆく ということ

戸板康二の「続 わが歌舞伎」の まへがき の冒頭に以下のようにあります。


先日、ある先輩が、なにしろこの頃の人達は、かぶきを見にゆくといふんだからね、時代が変わったよ、と嘆息するやうにいはれたのをきいて、自分でも初めて気がついたことなのだが(以下略)


え?「歌舞伎を見に行く」のどこが変なんだ?と昭和24年の戸板に問いかける、その答えは最後の章『芸談とは』にありました。





若い世代の人々は「カブキを見にゆく」といふが、老人は「菊五郎を見にゆく」といふ。つまり、演劇でなく、それをしばやといふ古風な発音をする年齢の見物にとつては、依然、歌舞伎は俳優を中心としたものであることに間違ひはない。


成る程、そうでありましたか。考えてみれば、ディープなクラシックファンは「音楽会に行く」とか「コンサートを聴きに行く」とは言わない。「ラトルのマーラーに行く」とか「ハーンのショスタコを聴きに行く」と言うわけであり、その点、ディープなファンにとっては、依然、コンサートはパフォーマーを中心としたものであることに間違いはない、という当然のことに気付いた次第。


さて翻って歌舞伎。海老蔵や七之助の二枚目振りはテレビなどで「そういうものか」と分かったものの、顔だけでファンになるほどに女性的でもミーハーではないし、かといって役者の個性など分からない。
團十郎が云々だの、富十郎がどうの、と言ったところで、それはある芝居での一面的なものでしかないことは承知の上、駄文を積み重ねている。


それでは、いつまでたっても、オーケストラごとの音色の違いとか、オケのメンバーの名前さえ覚えることができない、ナサケないクラシックファン(>俺だよ)と同じであるよなあ、などと、海老蔵の写真集を横目に眺めながら思うGW最後の休日でありました。


2005年5月8日日曜日

NHK BS:醍醐寺薪歌舞伎 勧進帳

5月7日のNHK BSで、今年の4月27~29日に世界遺産に登録されている京都・醍醐寺の境内で行われた「醍醐寺薪歌舞伎」の上演が放映されました。途中から見ましたので新作舞踊「由縁の春醍醐桜」は見られませんでしたが、「にらみ」と「勧進帳」は非常に見ごたえがありましたので、簡単に感想などを記すこととします。

まず成田屋伝統の「にらみ」。團十郎の「にらみ」は襲名披露依頼20年ぶりとのことで、みなさんの邪気も、私の邪気も払いたいと言ってから、グっとにらみに入るところ、表情の変化などテレビ映像ならではの迫力でした。

さて「にらみ」といえば最近読んだ戸板康二の「続 わが歌舞伎」には以下のような記載があります。

��荒事の主人公が、思ふ存分を発揮する形を示すといふことには)、僕の考えでは、團十郎(と仮にしておく)が、観客を代表し、もしくは観客のために、春のはじめに、四方にむかつて、見得を切ることによつて、一種の厄払いをする心持があったのではあるまいかと思ふのである。

なるほど「にらみ」が邪気を払うということは、歌舞伎浸透の文化から考えても特別な意味を内包しているのかと得心。そういう深い意味も込めた團十郎の「にらみ」、更には大病を患った後の復帰という心持もあるのでしょうから、見ているだけで有難い気持ちになってきます。もっとも十二代目團十郎は、非常に上品な顔立ちをしておられますから、ギロリとしたより目の見得にしても、どことはなしにユーモラスな感じが漂うというのは、私の勝手な解釈でしょうか。

さて、続いては「歌舞伎十八番 勧進帳」、演ずるのは弁慶に團十郎、富樫に海老蔵、そして義経は時蔵です。親子で勧進帳を演ずるのは海老蔵の襲名披露以来のこと、しかし昨年は團十郎が大病のため途中降板という無念の涙を飲んだ舞台でした。ですから再びこうして勧進帳を演じられることの喜びは、ひとしおであるのだろうと思います。

ただ、この有名すぎる演目であっても歌舞伎初心者の私には、「勧進帳って義経と弁慶が出るんだよな~。富樫って誰だ?」くらいの予備知識しかなく全くの初見であり、それ故テレビへの集中だけでは台詞を聞き取りきれなかった部分も多く、まさに無念ともいえる鑑賞結果でありました(TV放映に予め気付いていたならば予習くらいしたものを)。しかし歌舞伎の持つ様式美やら團十郎や海老蔵の演技など、それなりに堪能することができましたし、さらに「薪歌舞伎」という引き幕のない特殊な舞台での演目という点でも興味深いものがありました。

実際の客席で観るのと映像を通して見るのでは、全く印象が異なるのだとは思いますが、4月の歌舞伎座での團十郎(毛抜)を思い出しながらテレビに接していますと、團十郎という役者は性格的な大らかさを感じる俳優であるのだなあと改めて思いました。團十郎が居ることによって独特の存在感と安定感が生じますし、声の調子に長調的な明るさと底力があり、それが張りとなって舞台の空気を引き締めます。(團十郎に否定的な意見も読んだことはありますが)私としては台詞回しを聴いていて非常に心地よい。

対する海老蔵は高調子な声音。歌舞伎座の幕見席では役者の顔など全く伺うことなどできないのですが、テレビでアップで見ますと、流石に人気の出るだけある美男子であることを再確認、身体から匂い立つような品格は彼独自のものなのでしょうか。「ご機嫌!歌舞伎ライフ」のyukikoさんは、勧進帳の前に行われた柴燈護摩での海老蔵を以下のような描写で的確に表現されています。

するとお堂の陰からふいに平安時代の公達が物思いに沈んだ様子で現れ、見ればそれは海老蔵。光源氏と見まごうばかりの美しいその姿はまるで王朝の世にタイムスリップしたかのようでした。

海老蔵演じる富樫は関所を守る役人ですから公達ではないのですが、勧進帳においても確かに高貴さが漂っていました。それが富樫役として適切なのかは私には判じかねますが、弁慶とは違った情と存在感を示していたとは思います。山伏問答では、弁慶の余裕の問答にあせりながら、だんだんと押され気味になってゆくところなど、なかなかに見せてくれましたし、富樫の一番の見せ所(以下)も立派ではありました。

弁慶 笈に目をかけ給うは、盗人ぞうな。
 ト 四天王立ちかかるを
   コレ。
 ト 金剛杖を突きこれを制し
 ♪方々は何ゆえに、かほど賤しき強力に、太刀かたなを抜き給うは、目垂れ顔の振舞、臆病の至りかと、皆山伏は打刀ぬきかけて、勇みかかれる有様は、いかなる天魔鬼神も、恐れつびょうぞ見えにける。
 ト このうち弁慶は金剛杖、皆々刀に手をかけ、双方詰め寄りとなり、キッと見得。
弁慶 まだこの上にも御疑いの候えば、この強力め、荷物の布施物もろともにお預け申す、いかようとも糾明あれ。但しこれにて、打ち殺し見せ申さんや。
富樫 コハ先達のあらけなし。
弁慶 しからば只今疑いありしは如何に。
富樫 士卒の者がわれへの訴え。
弁慶 御疑念晴らし、打ち殺し見せ申さん。
富樫 イヤ早まり給うな、番卒どもがよしなき僻目より、判官殿にもなき人を、疑えばこそ斯く折檻もしたもうなれ。いざな今は疑い晴れ候。とくとく誘い通られよ。

それにしても、勧進帳は本当に見所の多い歌舞伎です。「天地(人)の見得」「元禄見得」「石投げの見得」など要所要所で決まる見得の見事さと美しさ。勧進帳を読み上げた後の♪ 天も響けと読みあげたりで決める、その名も「不動の見得」も立派。後追いで調べているので、テレビを見ながらいちいち、これが「元禄見得」だ、などと得心していたわけではありませんが。

ちなみに不動見得とは市川家が信仰してゐた(成田屋という屋号もそれから来てゐる)不動尊のすがたをそのまま写した見得のこと(文、絵とも「続 わが歌舞伎」P.119より)。

最後は有名な「飛び六方」で締めくくられますが、これはまさに「勧進帳」を勧進帳ならしめる六方です。映像では、カメラを花道の突き当たりの揚幕のあたりに据え、六方を踏みながら突進してくる團十郎をとらえているのですが、あまりの迫力にかカメラの焦点が合いきらずボケ気味の画像であったのは少々残念ではありました。

普通はこの飛び六方、幕引き後の花道で演ぜられるものですが、今回は醍醐寺を借りて演じていますから幕がありません。静々と富樫が奥に引き込むのを見送った後に、渾身の六法となりました。義経演ずる時蔵に一言も言及できませんでしたが、まあご勘弁を。勧進帳ではやっぱり義経は脇役ですから・・・

尚、本文中の勧進帳テキストは、ウェブ上の以下を参考にさせてもらいました。

2005年5月4日水曜日

JR西日本の事故とpunctuality

JR西日本の事故に関してNorimitsu Onishi氏(ネット界ではちょっと有名な記者ですが)のN.Y.Timesの記事を紹介しながら、下記のように書く擬藤岡屋日記のFlamandさんの意見に頷く点はあるものの、
我々および社会のpunctualityに対する信仰に近いdemandがある限り残念ながら今後もこのような悲劇を避けることは難しい
とするならば、解決の糸口は果たしてあるのかと暗澹たる気分に襲われることも否めません。

秒単位の巧緻なシステムを作り上げていた旧国鉄時代からのダイヤは、日本の一面を象徴していたはずです。punctualityを導くような勤勉さとか真面目さ、システムに対する厳格さが日本の文化的特質であり、ひいてはこれが近代日本を作り上げて来た力であると信じてきたところがありますが、実はそれは、多大なる犠牲と無理の上に成立した幻想でしかなかったのか、あるいは社会がいつの間にか変質してしまったのか、いや、そもそも、そんなところにまで事故の遠因を求めるべきなのか。それでは亡くなった方々はとてもでないが浮かばれまい。ということで、拙い思考は出口を失います。

事故当日のボーリング大会と事故車に同乗していた運転士の行動に対する批判についてもちょっと考えています。彼らを糾弾するマスコミや一部世論の嘘寒さは別としても、改めて「共同体における当事者意識」のスコープについて考えさせられる結果となったことは確かです。どこまでを「他人事」であると判断するかは、事の重大さのとの天秤において判断されましょうが、その判断基準とて個人の属する共同体の規律や個人を形成してきた文化的なものに左右されるのではないかと思うのです。

今回の事件は人命がかかっているため、最優先しなければならない事件であったと思われますし、JR西日本には弁解の余地は余りないようには思えるものの、それでも事故の責務とその場の責務を考えた場合、取るべき行動を冷静に判断するのは極めて困難ではなかったかと思うのです。逆にその場の状況を見て咄嗟に自分が出来ることを行おうすることが、意識無意識のうちに何ものかに阻害さていたのだとするならば、個の責務を免責するわけではないものの、社会に何かが欠損していると考えるべきなのでしょう。

先のpunctualityに象徴されるシステムへの無条件な迎合や厳格さが、上記の要因の一つであるならば、やはり暗澹たる気分は深まります。陳腐な日本文化論みたいになってしまいましたが、事故の原因もJR西日本社員の当事者意識の薄さも、確かに深いところの根は同じなのかもしれず、事故が見せ付けた日本社会の断章は、またしても生じた集団的袋叩きと連帯責任を問う声も含め、あまりにもグロテスクであると言えます。でも、残念ながらk-tanakaさんの書かれるこういう主体性のなさをみると日本人って前近代的な民族だなあと思うし、これこそ天皇制が生きながらえている理由なのだろう。という達観にまでは到達できない。

事故にあわれた方におかれましては、ご冥福を心よりお祈り申するとしか書きようがございません。