国立能楽堂で「万作を観る会」を観てきました。
最初の演目は「千鳥」
来客があるからと酒屋に太郎太夫(萬斎)を酒を買にやらせる主人。しかしツケの酒代を払っていないため、ウソを言って酒を取ってこいと言う無茶な話。太郎太夫が持ち前の話し上手、歌上手の特技を発揮して酒をかっさらってくるという、たわいもない話。「千鳥」の名前にもなった、「ちりちり〜」の台詞が耳にのこる。
狂言の持つ世界の平和さというか、時間のゆったりさ加減は全く現代から失われたものであると感ずる一方で、狂言の笑いは、漫才や落語にも通ずる部分があり、また歌や踊りによる遊びについても、現代日本に通ずる感性なのかと感ずる面もある。
次は小舞の「鮒」。見どころ云々の前に、あっという間に終わってしまった。
休憩をはさんでの「楢山節考」。59年ぶりの上演ということ。
狂言とはいうが、まったく笑いの要素はない。むしろ、狂言という枠取りの中に演劇の可能性を求めた、若い万作の野心作というべきなのだろう。解説にあるとおり、部隊は陰鬱、陰惨に支配されている。当時の食糧事情があるにしても、おりん(万作)は69歳、70歳になったら捨てられるという時代背景。現代ならば70歳はまだ働き盛りをすこし過ぎたばかり、登山して遭難するほどに元気である。とても息子に背負われて楢山に向かうという世代ではない。
劇はそういう悲劇性を持ちながらも、親子の情愛と、おりんの毅然とした決意を賛美はしていないものの、決然とした意思の表れとして描写している。そこに涙と美しさがが際立つ。
これらの運命を冷徹に見下ろしているのが、萬斎が演じる烏。この不気味さは花道に登場したときに、一瞬肝を潰したほど。悪意の塊のような存在だが、一方で神の視線でもあるか。
降り積もる雪の中で、おりんの回想が駆け巡るが、この時代の農民たちにあって、人生というものはいったい何であったのか。一見時代は変わったものの、現代版姥捨て山と呼ばれる実態と何が変わるのか。この時代に楢山節考を再演した意義は深いかもしれない。
最初の演目は「千鳥」
来客があるからと酒屋に太郎太夫(萬斎)を酒を買にやらせる主人。しかしツケの酒代を払っていないため、ウソを言って酒を取ってこいと言う無茶な話。太郎太夫が持ち前の話し上手、歌上手の特技を発揮して酒をかっさらってくるという、たわいもない話。「千鳥」の名前にもなった、「ちりちり〜」の台詞が耳にのこる。
狂言の持つ世界の平和さというか、時間のゆったりさ加減は全く現代から失われたものであると感ずる一方で、狂言の笑いは、漫才や落語にも通ずる部分があり、また歌や踊りによる遊びについても、現代日本に通ずる感性なのかと感ずる面もある。
次は小舞の「鮒」。見どころ云々の前に、あっという間に終わってしまった。
休憩をはさんでの「楢山節考」。59年ぶりの上演ということ。
狂言とはいうが、まったく笑いの要素はない。むしろ、狂言という枠取りの中に演劇の可能性を求めた、若い万作の野心作というべきなのだろう。解説にあるとおり、部隊は陰鬱、陰惨に支配されている。当時の食糧事情があるにしても、おりん(万作)は69歳、70歳になったら捨てられるという時代背景。現代ならば70歳はまだ働き盛りをすこし過ぎたばかり、登山して遭難するほどに元気である。とても息子に背負われて楢山に向かうという世代ではない。
劇はそういう悲劇性を持ちながらも、親子の情愛と、おりんの毅然とした決意を賛美はしていないものの、決然とした意思の表れとして描写している。そこに涙と美しさがが際立つ。
これらの運命を冷徹に見下ろしているのが、萬斎が演じる烏。この不気味さは花道に登場したときに、一瞬肝を潰したほど。悪意の塊のような存在だが、一方で神の視線でもあるか。
降り積もる雪の中で、おりんの回想が駆け巡るが、この時代の農民たちにあって、人生というものはいったい何であったのか。一見時代は変わったものの、現代版姥捨て山と呼ばれる実態と何が変わるのか。この時代に楢山節考を再演した意義は深いかもしれない。